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Cinefil Imagicaでこの7月放映中。 1971年の作品。 映画館で観たことはないが、テレビで放映されているのを何度か観ていると思う。 …が、まったくと言っていいほど印象に残らない…。 音楽だけは耳に残る。 映画以上にビージーズやCSN&Yの音楽が有名かもしれない。 ディスコ・サウンドの前のビージーズの音楽は、本当に耳に心地よい。 映画のラストがCSN&Yの Teach Your Children というのは皮肉っぽいが(苦笑)。 しかし、ロンドンを舞台にしているのに音楽はアメリカンだし、 映画もなんとなくニューシネマの影響を感じなくもない。 11歳の子供の心情を良く表現している、のだそうだが、いまいちピンとこない。 自分が11歳の頃に観ておけばよかったのか? 似たような作品に後発の「リトル・ロマンス」があるが、そちらの方がリアリティを感じる。 結局、子役がかわいい、というところか。
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NHK-BS2で放映していた。 「追憶」は映画館で観ている。 …といっても、ロードショーでもリバイバルでもなく、名画座で、「スティング」と二本立てだった。 目当ては「スティング」だったのだが、それだけしか見ないなんてもったいない。 もちろん両方観た。 そんなわけで、ほとんど基礎知識0、ロバート・レッドフォードが出ている、くらいしか知らない状態で 観たのだったが、映画が終る頃には、すっかりバーブラ・ストライザンドに魅せられていた。 バーブラ・ストライザンドとドナ・サマーとデュエットした No More Tears の大ヒットが まだ記憶にそう古くはなっていなかった頃で、その頃は歌手のイメージが強かった。 お世辞にも美人とはいえない顔立ちなのだが、内面からにじみ出てくる美しさを感じさせる演技を、 「追憶」では見せていた。 正直言うと、初めて観たときは、ストライザンド演じるケイティの反戦やら言論の自由の主義主張は、 よくわかっていなかった。 だが、それがケイティにとってとても大切なことで譲れないことというのは伝わってきた。 ケイティが自分の信念を貫こうとするとき、彼女は輝いていた。 そんなケイティが、思いを寄せるハベル(レッドフォード)の前では、恋する乙女になってしまう。 一方ハベルの方は、一緒にたむろっている仲間の中ではマシな方だが、お気楽なブルジョワのボンボンだ。 確かにハンサムだけど(若い頃のレッドフォードは本当にかっこいい!)、 いったいどこにどう魅力があるのか…という人柄なのだが、レッドフォードが演じるとそれなりに 魅力的に見えてくるから不思議だ。 こういう役をやらせたらレッドフォードは本当にハマる。 「華麗なるギャツビー」のギャッツビーとか、「愛と哀しみの果て」のデニスとか、 レッドフォード以外でハマる役者はいるのだろうか? それに、白いスーツや軍服姿がこれほど似合う人なんて、他にそうそういないと思う。 今回久々に見て気が付いたのは、キャロル・アンを演っているのはロイス・チャイルズだということに気付いた。 他では、「007/ムーンレイカー」のボンドガール、ドクター・ホリー、TVドラマ「ダラス」でホリーを演じている。 今まで気付かなかった〜。 |
「勝手にしやがれ」は映画の題名としてより、沢田研二の古いヒット曲として方がピンときたりして…。(歳がばれるか?) 映画はcinefil imagicaでこの7月、放映している。 1959年フランスの白黒映画。 ゴダール監督の長編デビュー作で革命的傑作ということなのだが、今まで観たことがなかった。 低予算映画らしいが、ベルリン国際映画祭 監督賞、ジャン・ヴィゴ賞の受賞作品ということで、当時は評価されたようだ。 その頃は、非常に斬新だったのかもしれないが、今、見ると、どうなんでしょうねぇ〜。 白黒なのがかえって救いかも。 ジャン=ポール・ベルモンド演じるミシェルはそんなに魅力的に見えないし、ジーン・セバーグ演じるパトリシアが最後に裏切るのももっともという感じ。 …というかなぜもっと早く手を切らないの、と思ってしまう。 人物よりも、パリという町がいかに絵になる所か、という方が印象的。 |
1989年。日本では1990年4月公開。 ストーリーとしては地味なのですが、出演している女優陣の演技が素晴らしくて、ついひきこまれてしまいます。 その女優陣とは、サリー・フィールド、ドリー・パートン、シャーリー・マクレーン、ダリル・ハンナ、オリンピア・デュカキス、ジュリア・ロバーツ。 ジュリア・ロバーツが「プリティ・ウーマン」に主演する前の作品です。 ドリー・パートンというと、「9 to 5」をヒットさせた歌手というイメージの方が強かったりするのですが、どうして、なかなか良い味を出しています。 ダリル・ハンナというと、美人の可愛い女の子、というイメージが強いように思いますが (「スプラッシュ」「夜霧のマンハッタン」などに代表されるように、少なくともこの映画の公開の頃は…)、 ここでは、個性的な眼鏡をかけて、一風変わった女の子を演じています。 サリー・フィールドは普通のお母さんを普通に演じている、といった感じ。 「フォレスト・ガンプ」や「ミセス・ダウト」から比べるとあまりにも普通のお母さんですが、 それを自然に演じているところがやっぱり凄い。 かなり癖のあるおばさんを演じるシャーリー・マクレーンの迫力は凄い。 オリンピア・デュカキス演じる、品の良いおばさま、と対をなしているところが何とも…。 ジュリア・ロバーツは「プリティ・ウーマン」でスターになったけれども、その後の活躍よりもこの映画の方がずっといいのでは? |
今年のカンヌ国際映画祭でマイケル・ムーア監督の新作映画「華氏911」が最高賞パルムドールを獲得した。 この題名を聞いてピンとくる人は、そう多くはないと思うのだが、 明らかにレイ・ブラッドベリ作のSF「華氏451度」のタイトルをパクっている。 ムーア氏はブラッドベリ氏に「敬意を表して」題名をつけたということらしいが、 ブラッドベリ氏の方は「題名を盗まれた」とカンカンだそうだ。 「華氏911」がブッシュ米政権を批判する内容であり、911はテロ事件の起こった9月11日である。 一方「華氏451度」は、思想統制の焚書(ふんしょ)を描く近未来小説で 本の存在しない未来の管理社会を批判している。 1966年には、オスカー・ヴェルナーの主演で映画化されている。 イギリス/フランス製作なのでハリウッド作品に比べていまいちマイナーか…。 「華氏911」がらみの醜聞というより、オスカー・ヴェルナー主演ということに興味を持ち、今回ムービープラスで放映されたのを機に観た。 オスカー・ヴェルナーは白黒作品の「愚か者の船」で好演していたが、 カラーより白黒映画の方が似合うように思う。 ヴェルナーが出演した「刑事コロンボ」(もちろんカラー)も見たが、なんか…ね。 まぁ、そんなことはともかく、1960年代には充分近未来社会だったのであろうが、今見ると陳腐である。 思想統制の焚書を批判することを描きたいのであれば、時代を近未来に置く必要もなかったのではないか、 と思ってしまう。 ここで描かれる思想統制の道具としてテレビが使われているのだが、 テレビ VS. 本(書物、活字)という構図を意識していたのだと思われる。 1960年代といえば、テレビがカラー化した時代。家庭への普及率もかなりのものになった頃だと思う。 今、同じようなことを描くのであれば、インターネット VS. 本になるのかもしれない、とふと思った。 そのテレビの象徴として、各家の屋根にはアンテナが立っている。 アンテナが立っていない家は「普通でない」ということで怪しまれてしまうのだ。 このアンテナが近未来社会としては陳腐。 もちろん1960年代には、ケーブルTVや衛星放送の普及は予見できなかったことだろうから仕方が無い。 それから、電話が妙にクラシックだったり(同じく携帯電話の普及など予測不可能だったはず)、 街や住宅地の光景がのどか(どう見ても人口が増えたようには思えない)で、 近未来的というより牧歌的である。 原作小説では、近未来的な自動機械がもっと出てくるようなので、 映像化の際にわざとそうしたのかもしれない。 で、あれば、思い切って近未来社会という設定をはずしても良かったのではないか、と思うのである。 …とはいえ、近未来に設定しなければ、インタラクティブなテレビ(ほんとにインタラクティブだったのか、 というと疑問を感じるが…)は説明つかないかもしれないが…。 読書が禁止されているこの社会で、本を持っていたらどうなるか? 消防士たちによって焼き捨てられる。 本来、火を消すのを仕事としてきた消防士が、本に火をつけるのだ。 オスカー・ヴェルナー扮するモンターグはその消防士の一人。 近未来では住居はすべて耐火になったので、消化の仕事はなくなったという。 その辺はSFでないと説明つかないだろうが、牧歌的な風景の映像を見ていると、 建物以外にいくらでも燃えるものがあるだろう、と思ってしまう。 まぁ、そこは置いておこう。 本を焼く仕事を職業としているモンターグだが、彼自身は、 テレビで洗脳されているかというとそうでもない。 淡々と仕事をこなしているに過ぎない。 一方、モンターグの妻リンダは、すっかりテレビに洗脳されてしまっている。 クラリスという女性はそんなモンターグに目をつけた。 実は読書家の彼女、影響されてモンターグが本を読むようになるのは時間の問題だった。 …とあらすじで書いてしまうと、当然の展開のようだが、 モンターグが危険を冒してまで読書をしようと思った心情の変化を、 きちんと描いて欲しかったように思う。 そもそも本を入手することだって難しいはずだ。 それに、一方的に話しかけてきた(接近してきた)クラリスに、 もう少し警戒心をもってもいいのではないだろうか。一応妻帯者なんだし…。 昇進を控えているのだし。
読書を始めたモンターグはその魅力に取り付かれた。
ちなみに初めて読んだ本はディケンズの。
表紙に印刷していある出版社の名前から何から全部、読み上げていくのがなんとも…。
今まで本を読む習慣がなかったのだから、一字一句全部読んでしまう、というのが細かいところ。
だが、いったい文字(単語)はどうやって覚えたのだろうか?
本どころか、新聞にも活字は印刷されていなかった。
モンターグが読書をしていることは、やがて妻のリンダの知るところとなる。
リンダはしばらくは我慢していたが、とうとう密告する。
同じ頃、モンターグは消防士を辞職する決意をし、上司に申し出る。
最後の出動命令に従って行った先は、なんと自分の家だった。
妻はもちろん出て行った後。
上司は、モンターグに隠した本を出し焼くように命令する。
モンターグは隠した場所から取り出すふりをして、
ひそかに1冊だけ懐にしのびこませるがそれも見つかってしまう。
本を取り出したのはいいものの、モンターグにはどうしても焼くことができない。
とうとう彼は上司に火焔放射器を向ける。
この辺は映画ならではのクライマックス。
こうして、モンターグは殺人犯として追われることになった。
モンターグは、クラリスが話してくれたことのある「本の人々」が住む国へ逃れる。
一方テレビでは、殺人犯モンターグが捕まるシーンが放映されていた…。
これ凄いですよね。捕まえていないのに、捕まえたことにしてしまう。
人々は、犯人が捕まる場面をテレビで見ることを望んでいるから。
「本の人々」が住む場所があるというのも凄い。死角です。
彼らは本を愛する人々だが、本を持っているわけではないから、万が一見つかってもいいのかもしれない。
危険を避けるため本を暗記して本そのものは捨ててしまうのだ。
そこは、究極の世界。
…本がこの世からなくなったら、読書が禁止されたら…、なんて考えたくない世の中だが、1960年代という時代背景はテレビによる洗脳社会に対する漠然とした不安が存在していたのでは
ないだろうか。
ちなみに、この映画の監督トリュフォーは『ある映画の物語』という著作で、撮影日記を本にまとめているらしい。
それによると主演のオスカー・ヴェルナーとはかなり確執があったようだ。
挨拶もしないほど喧嘩ばかりだったとか。
監督の言い分によると、演出を無視して勝手に演技をしたり、
映画のラストシーンの撮影の日には、無断で髪を短く刈った姿で現れたとか。
そこまでやるとなると、トリュフォーにたいする嫌がらせかもしれないのだが、ヴェルナーの言い分も聞いてみたい。
相性が悪かったようだが、そもそも監督の意図したキャスティングでは、プロデューサーのOKが出なかったという事情もあるようだ。
そんな状態で良く映画を撮れたものだ…。
ちなみに「華氏451」は、「本のページに火がつき、燃えあがる温度」のこと。
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1956年の作品。 今年の4月くらいにBSで放映されたのを録画しておいたのだったと思う。 この映画でピアノに魅せられる人も少なくないようだ。 キーボードプレイヤーのミッキー吉野もこの映画に影響を受けたことを語っていたと記憶している。 カラーということもあり、映像からそれほど古さを感じさせないが、やはり内容は50年近くも前のもの。 今風の味付けに慣れてしまった目から見ると、お話を綺麗にまとめあげているところがかえって気になってしまう。 内容は「グレン・ミラー物語」のピアニスト版といったところか。 しかし、ピアニスト、エディ・デューチンの成功物語というよりは、どちらかというと彼の恵まれなかった私生活に焦点をあてている。 実力あってこその成功には違いないが、そこに至る過程については、映画を観る限り、ラッキーだったしか言いようがなくそこに感動はない。 一方、私生活では、妻が我が子を出産した直後に亡くなってしまい、そこから悲劇が始まる。 妻を亡くしたショックで生まれた子供に愛情を注げない、というのはよくある話。 映画の後半は、いかに子供を受け入れられるようになったかを描いている。 そこはもっと壮絶であるべきなのだが、葛藤はあるものの、リアリティに欠ける。 父子が心を通わせられるようになったところで、父親は不治の病にかかっていることを知る。 「時間が足りない」とはなんと残酷な運命。 まぁ、時間を足りなくしてしまった原因はエディ・デューチンにもある。 子供から逃げてツアーで世界を回るような生活をできたことは、彼にとって幸か不幸かわからない。 父が有名な人気音楽家でなく、演奏旅行と言う口実で逃げる場所がなければもっと早く立ち直れたかもしれない、と思わなくもない。 余命が限られていることを宣告されてから、エディ・デューチンは息子の世話係を務めていた 若い女性と再婚する。 彼女にはもっと別の人生を選択する余地もあったのではないかと思ってしまうのは、 少々意地悪な見方か…。 ともあれ、最後に限られた時間ながら父子は母親を交えた家庭をもつことができる。 エディ・デューチンが亡くなった事を暗示するラストシーンのせいか、めでたしめでたし、というハッピーエンドではないのだが、きっとエディ・デューチンは晩年を幸せに過ごしたに違いない、と思わせる。 ストーリーだけとってみると、物足りないのだが、そこは実在の人物の半生を描いている、という事実の裏打ちと、映画を彩る音楽の美しさとマジックで補っている。 やはり音楽の持つパワーというのは素晴らしい。
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SUPER CHANNELで放映されていたのを観た。 英国の作家ジョン・ブレインの原作を、ジャック・クレイトンが監督した1958年の白黒作品。 映画「愚か者の船」にも出演していたシモーヌ・シニョレの演技が高く評価され、 その年のオスカーとカンヌの主演女優賞を受賞している。 …といってもこの話の主人公は立身出世の野望をもつ青年ジョーである。 このジョー演じるローレンス・ハーヴェイがもっと良い味を出していればねぇ…。 それから、「年上の女」という邦題もどうだか。 確かに『年上の女』アリスを演じたシモーヌ・シニョレが良い味を出しているのは事実だが、 原題の「Room at the Top」の方がストーリーにはマッチする。 舞台はイギリス北部の都会ウォーンリー。 都会、といっても小さな町で町の中のことはすべて筒抜け。 そして、階級社会。 この階級社会というのがピンとこない。 階級ごとにコミュニティができあがっているのかというと必ずしもそうではなくて、 この町の住民で構成される素人劇団は階級とりまぜのグループになっている。 野心家のジョーは、有力者ブラウン氏の娘スーザンがこの劇団の所属することから、 逆玉の輿の機会を狙うため入団する。 真面目に観ていなかったせいか、最初は、本気でスーザンに惚れたのかと思ってしまった。 この辺がわかりにくので、…というかわかったところで主人公に共感できるわけではないのだが、 何がどうなるのやらさっぱり…。 スーザンの両親は、ジョーの接近を快く思わない。 ジョーに魅力があるとも思えないのだが、反対されるとかえって反発するのか、 それとも階級の壁を乗り越えてアプローチしてくるジョーに好感をもったのか、 スーザンもまんざらではない様子。 この辺のスーザンの気持ちもよくわからない。 スーザンにアプローチする一方、ジョーは同じく劇団の所属する人妻アリスと親しくなる。 彼女が不幸な結婚に苦しんでいることは、皆口に出しては言わないが、 町の中ではよく知られている事実のようだ。 なぜ、ジョーはアリスにちょっかいを出す気になったのか。 その辺の心の動きもいまいち理解できない。 最初から妻と恋人は分けて考えていたのか? それとも成り行きなのか…。 スーザンの両親は、スーザンをフランスへ旅行に出し、ジョーから引き離す。 この間にジョーとアリスの関係はますます深くなる。 …といってもジョーはスーザンをあきらめているわけではなく、無視することにより、 スーザンの気を引く作戦なのである。 そして、ジョーはフランスから帰国したスーザンと関係を持つ。 …とはいってもアリスもあきらめられない。 ジョーとアリスの関係も町中に筒抜け。 スーザンの父親ブラウン氏は、ジョーを町から立ち去らせようとするが拒否される。 すると一転、ジョーにアリスと手を切ってスーザンと結婚するよう申し渡す。 スーザンを妊娠させた責任を取れ、ということ。 これで、それで幸せになれるかどうかはともかく、ジョーは野望を果たしたことになるのだが、 アリスとの関係を清算しなければならない。 放心状態のアリスが運転する車は事故を起こす。 アリスは死んだことを知り、ジョーは後悔する。 後悔するくらいなら、最初からアリスとの関係はほどほどにしておけばいいのに…と思う。 野心家のわりには器が大きくない。 アリスの死を嘆いて、ジョーも自殺するのではないかと思ったが、結局 ジョーとスーザンとは結婚式を挙げる。 幸せな結婚生活が待っているとはとても思えない複雑な結末。 なんだかね…。 登場人物(特にジョー)の心の動きをもっと見せて欲しかった。 それにしても、なんでもかんでも筒抜けなこの町、そして、階級の壁、とても私は住めそうにない…。 |
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