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ミュージカル「ジキル&ハイド」を観て以来、 実は、「ジキル&ハイド」という作品がとても気になっている。 原作は、一人の人間がもつ二面性という、普遍的とも言えるテーマを扱いながらも、限りなくシンプル。 別の言い方をすれば、どうにでも煮るなり焼くなりアレンジ出来てしまう作品。 様々な解釈で数え切れないくらい映画化されている。 比較的最近の作品ではMary Reillyがある。 この8月はMoviePlusで「ジキル博士はミス・ハイド」を放映している。 これはB級というかC級かもしれないコメディ映画。 シリアスな話もここまでコメディになってしまうものか… PR |
公開当時(1980年)は角川が非常に元気な時代で世間的にも話題にはなっていたと記憶しているが、はっきり言って血生臭い映画なので、観に行く気はサラサラなし。 その後もテレビでも何度も放映していたとは思うが、敢えて観ようとは思わず、結局、初めて観たのは世紀をまたいでから。 この8月チャンネルNECOで放映中。 (…といってももう明日10日だけか…) 大藪春彦の同名小説を原作とする映画は、松田優作主演のものが有名だが、他にも、仲代達矢主演、木村一八主演でも映画化されているとは今まで知らなかった。 松田優作演じる伊達邦彦は、原作とはかなり違ったキャラクターになってしまったらしいのだが、この映画はこれで完成しているのだと思う。 役作りのために奥歯を抜いたという松田優作は言うまでも無く、脇を固める室田日出男、鹿賀丈史の演技が素晴らしい。 映画にしてはロングカットが多い。 まるで舞台を観ているような錯覚に落ちるほどの緊迫した演技。 この演技を観るだけでも、この映画の価値はあると思う。
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この8月MoviePlusで放映中。 スティーヴン・キング作の短編を原作とした1986年の米映画。 日本公開は1987年4月。 ベストセラー作家の作品の映画化ということで封切り前から話題になっていたと記憶している。 ロードショー公開で観に行った。 夏の終りと子供時代の終り、そして映画を彩る50年代のアメリカン・ポップ・ミュージック。 それらがすべてマッチしていて良い雰囲気だった。 じゃあ、どんな内容だったかな、というとあまり印象に残っていなかったりする。 少年4人が死体探しの旅(旅といってもたった2日間だ)に出る、という映画紹介程度のことはさすがに記憶しているが…。 後で気がついてみれば、リヴァー・フェニックスが出ていた、キーファー・サザーランドが出ていた、ということなのだが、どんな役だったかさっぱり思い出せない。 改めて(テレビで)観て、確かに後味の良い映画ではあるが、内容としてはそんなに濃くないと感じた。 兄を失ったゴーディの家族は、映画「普通の人々」を連想させるが、そのテーマに深く踏み込んでいるわけではない。 それがこのストーリーの目的ではないから当然といえば当然で、少年4人4様の境遇をそれぞれサラリと描く。 これに、兄世代の不良達がからんでくる。 この不良の親分がキーファー・サザーランドだった。 不良達の悪行ぶりを描くよりは、少年4人をもっと深く描いた方が視点が定まったような気もするのだが、 あくまでもサラリと描いているから良いのかもしれない。 これも、サントラ音楽が効果的に映画を彩った作品の一つと言えるだろう。 最後に流れる Stand By Me を聴いていたくて、エンドのクレジットロールを最後まで観てしまう。
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1995年のヨーロッパ映画。日本公開は1996年10月。 レオナルド・ディカプリオ、デヴィッド・シューリス出演。 この8月シネフィル・イマジカでリピート放映中。 アイドル、レオ様がトップ・クレジットのこの映画、なかなか正当な評価を受けるのは難しいかもしれない。 「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」でルーピン先生を好演しているデヴィッド・シューリスが出演しているので、観てみる気になった。 間違っても、「ハリー・ポッター」シリーズのようなファミリー、お子様向け映画ではないので注意。 内容は、19世紀後半のフランスの詩人、ランボーとヴェルレーヌを描いている。 この二人の関係は、ちょっとだが「アマデウス」のモーツァルトとサリエリの関係を思い起こさせる。 この映画においても、「アマデウス」のように史実とは多少異なっても、あるいは想像にたよって、大胆な脚色演出をしても良かったように思うのだが、残念ながらそこまで踏み込んではいない。 実在の人物を扱うのは難しいとは思うが、かといって、詩人としてのランボー、ヴェルレーヌも浮かび上がってこないし、今一つ物足りない仕上がり。 どうせなら、フランス語でやってくれれば良かったのに、とも思う。 意味がわからなくても、フランス語独特の響きで韻を踏んだ詩でも朗読してもらったら、それだけで雰囲気が出るのではなかろうか。 映像は、ヨーロッパ映画らしく綺麗にまとまっていると思う。 細かいことだが、カットのつなげ方がいくつか雑な部分があったのが残念。 それじゃ前後のシーンをいかにも別々に撮りました、みたいな感じ。 若き天才といった役どころはディカプリオにぴったりだと思う。 16歳の天才を、16歳の子役にやらせようと思ってもなかなか難しいだろう。 この映画の時、ディカプリオは20歳くらい。 でも余裕で16歳に見える。 (さすがに「Catch Me If You Can」で13歳を演じたのは無理があったが…) もともと、リバー・フェニックスとジョン・マルコヴィッチで予定されていたようなのだが、リバー・フェニックスが急逝してしまったらしい。 もし、マルコヴィッチがヴェルレーヌを演じていたらそれこそ「禿げた醜いおっさん」に扮してそれはそれでぴったりだっただろう、と思う。 デヴィッド・シューリスもその「禿げた醜いおっさん」に扮しているのだが、この映画の頃は、痩せて背が高くて、きちんと装えばスラッとしているし、手が手タレかと思うくらい綺麗で(笑)、そこまで言うほど醜いかなぁ?という感じ。 (余談だがこれくらい痩せていたほうが shabby なルーピン先生にぴったりだったように思うのだが…。) しかし、芸術家というのは人間的にダメなヤツがやっぱり多いのか…。 それとも彼らが飲んでいた禁断の酒「アブサン」という酒のせいか…。 そんな思いっきりへタレなヴェルレーヌを演じ、ディカプリオ演じるランボーをひきたたせていたシューリスに拍手。 (ヘナヘナっとした雰囲気を出すときの独特の物腰は本人の癖か?一瞬だけだがルーピン先生と同じ。) 「仮面の男」とか「タイタニック」を見てもディカプリオをぜんぜん良いと思えなかったのだが、ここではどうして、良いではないか。 ディカプリオの演技が上手いのか、彼の素の魅力をランボーの魅力に重ねた演出力なのかはわからない。 美少年すぎてしまって、ヴェルレーヌの義母と妻が「薄汚い田舎もの」と思う下りも、ぜんぜんそうは見えない(苦笑)。 これは工夫が足りない、というか、カットのつなぎ同様、雑に作ってしまったと言える部分で残念。 そして、美少年だけに、無理して、ランボー後年の姿を回想シーンのように映像化して入れなくても良かったように思う。 さすがに同じディカプリオが演じるには無理があるしね。 原題の TOTAL ECLIPSE とは皆既食のこと。 そのまま訳語をタイトルにしても、カタカナのままでもいただけない。 しかし、この邦題も、二人の背徳的な関係のみを暗示しているようで、雰囲気はあるけれど…。
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2001年のメキシコ映画。日本公開は2002年8月。 いわゆるプロによる映画評が良い。 アルフォンソ・キュアロンという人は評論家受けが良い監督なのだろうか、と思ってしまう。 最新作の「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」にしても、やたら評論家受けがよろしいようだ。 最後、人妻ルイサが1ヶ月の余命だったというのはズルイ、と思った。 確かに、彼女が存命であるより、もうこの世にいない、という方がおさまりはいいのだが、 1ヶ月の余命の人があんなに健康的か?という疑問と、 そこまで追い詰められているのならば、彼女はなぜ一人で旅に出なかったのか?という疑問が残る。 彼女が夫を捨てて旅に出る動悸は充分にあるが、それに、年下の従兄弟とその友達を巻き込む必然性はない。 誘われた、といってもそれを本気にする方がどうかしている。 一人で旅に出る勇気がなかったのだろうか。 それとも女性が一人で旅に出る、なんてナンセンスなお国柄なのだろうか? |
1986年の米映画。日本での公開は1987年3月。 ロバート・レッドフォードが出演していたので、映画館まで足を運んで観た作品ではあるのだが、内容がどうしても他の映画とゴッチャになってしまう上にどんなストーリーだったか良く覚えていない。 その後、テレビで放映された時も観ているが、すぐに忘れてしまう。 ようするに、感動したり感銘を受けたりするような内容ではなく、ライトに楽しむタイプの映画で、ミステリーとサスペンスで味付けしたラブ・コメディというかロマンチック・コメディだ。 ミステリーとサスペンスとラブ・ストーリーその他もろもろを詰め込んでいるので、必然的に内容は薄いし、キャラクターも非現実的。 そこはキャスティングの良さで救われているという感じ。 レッドフォード演じるローガンは、将来を期待された検事補。 ただし生活能力まるで0。そこで笑いを取る。 確かにレッドフォードが家事が得意なミドル・エイジっていうのもイメージに合わないので、これはいいだろう。 ピカソもわからないくらい美術音痴というのも笑える。 しかし、仕事は有能、そちらはビシッと決める。 デブラ・ウィンガー演じるローラ・ケリーは弁護士。 検事補に弁護士とくれば、もうここで構図が見えてしまう。 ここはあまりにミエミエの展開だが、まぁいいだろう。 やっぱり法廷のシーンは面白い。 アメリカの法廷のシーンが面白いのは、いかに陪審員に訴えるかの話術の部分が大きいからだと思う。 しかし、この二人が後半、刑事か私立探偵のような活躍を見せるのはどうなんだろう。 あまりに自然にこなしているが、弁護士はともかく検事補が日常茶飯事にそんなことをこなしているとは思えないのだが…。 そして、ラスト、火事の中に突っ込んで行って無事みんな(良い人だけ)生還してしまう、というのはなんとも安直。 レッドフォードはスーパーマンか?(笑) まぁ、レッドフォードだから許せてしまう部分が無きにしも非ず。 この二人にミステリアスな美女チェルシーがからんでくる。 悲劇のヒロインのはずなのだが、行動、言動に怪しさいっぱい。 これもダリル・ハンナが演じるからサマになっているし、納得もできる。 これだけはまったキャスティングであるにもかかわらず、イメージの貼り合わせなので、どのキャラクターも映画を通して印象に残るようなことはない。 見ているときは、それなりに面白いし楽しめるが、見終わっても何も残らないどころか綺麗に忘れられる。 忘れられるから、逆にいいのかもしれない。 ちなみに原題の「legal eagle」は「すご腕の弁護士」とか「やり手の弁護士」という意味。 たしかにそのままの意味で邦題をつけてもしょうがないが、どこが「夜霧」なんでしょ? |
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