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今年のカンヌ国際映画祭でマイケル・ムーア監督の新作映画「華氏911」が最高賞パルムドールを獲得した。 この題名を聞いてピンとくる人は、そう多くはないと思うのだが、 明らかにレイ・ブラッドベリ作のSF「華氏451度」のタイトルをパクっている。 ムーア氏はブラッドベリ氏に「敬意を表して」題名をつけたということらしいが、 ブラッドベリ氏の方は「題名を盗まれた」とカンカンだそうだ。 「華氏911」がブッシュ米政権を批判する内容であり、911はテロ事件の起こった9月11日である。 一方「華氏451度」は、思想統制の焚書(ふんしょ)を描く近未来小説で 本の存在しない未来の管理社会を批判している。 1966年には、オスカー・ヴェルナーの主演で映画化されている。 イギリス/フランス製作なのでハリウッド作品に比べていまいちマイナーか…。 「華氏911」がらみの醜聞というより、オスカー・ヴェルナー主演ということに興味を持ち、今回ムービープラスで放映されたのを機に観た。 オスカー・ヴェルナーは白黒作品の「愚か者の船」で好演していたが、 カラーより白黒映画の方が似合うように思う。 ヴェルナーが出演した「刑事コロンボ」(もちろんカラー)も見たが、なんか…ね。 まぁ、そんなことはともかく、1960年代には充分近未来社会だったのであろうが、今見ると陳腐である。 思想統制の焚書を批判することを描きたいのであれば、時代を近未来に置く必要もなかったのではないか、 と思ってしまう。 ここで描かれる思想統制の道具としてテレビが使われているのだが、 テレビ VS. 本(書物、活字)という構図を意識していたのだと思われる。 1960年代といえば、テレビがカラー化した時代。家庭への普及率もかなりのものになった頃だと思う。 今、同じようなことを描くのであれば、インターネット VS. 本になるのかもしれない、とふと思った。 そのテレビの象徴として、各家の屋根にはアンテナが立っている。 アンテナが立っていない家は「普通でない」ということで怪しまれてしまうのだ。 このアンテナが近未来社会としては陳腐。 もちろん1960年代には、ケーブルTVや衛星放送の普及は予見できなかったことだろうから仕方が無い。 それから、電話が妙にクラシックだったり(同じく携帯電話の普及など予測不可能だったはず)、 街や住宅地の光景がのどか(どう見ても人口が増えたようには思えない)で、 近未来的というより牧歌的である。 原作小説では、近未来的な自動機械がもっと出てくるようなので、 映像化の際にわざとそうしたのかもしれない。 で、あれば、思い切って近未来社会という設定をはずしても良かったのではないか、と思うのである。 …とはいえ、近未来に設定しなければ、インタラクティブなテレビ(ほんとにインタラクティブだったのか、 というと疑問を感じるが…)は説明つかないかもしれないが…。 読書が禁止されているこの社会で、本を持っていたらどうなるか? 消防士たちによって焼き捨てられる。 本来、火を消すのを仕事としてきた消防士が、本に火をつけるのだ。 オスカー・ヴェルナー扮するモンターグはその消防士の一人。 近未来では住居はすべて耐火になったので、消化の仕事はなくなったという。 その辺はSFでないと説明つかないだろうが、牧歌的な風景の映像を見ていると、 建物以外にいくらでも燃えるものがあるだろう、と思ってしまう。 まぁ、そこは置いておこう。 本を焼く仕事を職業としているモンターグだが、彼自身は、 テレビで洗脳されているかというとそうでもない。 淡々と仕事をこなしているに過ぎない。 一方、モンターグの妻リンダは、すっかりテレビに洗脳されてしまっている。 クラリスという女性はそんなモンターグに目をつけた。 実は読書家の彼女、影響されてモンターグが本を読むようになるのは時間の問題だった。 …とあらすじで書いてしまうと、当然の展開のようだが、 モンターグが危険を冒してまで読書をしようと思った心情の変化を、 きちんと描いて欲しかったように思う。 そもそも本を入手することだって難しいはずだ。 それに、一方的に話しかけてきた(接近してきた)クラリスに、 もう少し警戒心をもってもいいのではないだろうか。一応妻帯者なんだし…。 昇進を控えているのだし。
読書を始めたモンターグはその魅力に取り付かれた。
ちなみに初めて読んだ本はディケンズの。
表紙に印刷していある出版社の名前から何から全部、読み上げていくのがなんとも…。
今まで本を読む習慣がなかったのだから、一字一句全部読んでしまう、というのが細かいところ。
だが、いったい文字(単語)はどうやって覚えたのだろうか?
本どころか、新聞にも活字は印刷されていなかった。
モンターグが読書をしていることは、やがて妻のリンダの知るところとなる。
リンダはしばらくは我慢していたが、とうとう密告する。
同じ頃、モンターグは消防士を辞職する決意をし、上司に申し出る。
最後の出動命令に従って行った先は、なんと自分の家だった。
妻はもちろん出て行った後。
上司は、モンターグに隠した本を出し焼くように命令する。
モンターグは隠した場所から取り出すふりをして、
ひそかに1冊だけ懐にしのびこませるがそれも見つかってしまう。
本を取り出したのはいいものの、モンターグにはどうしても焼くことができない。
とうとう彼は上司に火焔放射器を向ける。
この辺は映画ならではのクライマックス。
こうして、モンターグは殺人犯として追われることになった。
モンターグは、クラリスが話してくれたことのある「本の人々」が住む国へ逃れる。
一方テレビでは、殺人犯モンターグが捕まるシーンが放映されていた…。
これ凄いですよね。捕まえていないのに、捕まえたことにしてしまう。
人々は、犯人が捕まる場面をテレビで見ることを望んでいるから。
「本の人々」が住む場所があるというのも凄い。死角です。
彼らは本を愛する人々だが、本を持っているわけではないから、万が一見つかってもいいのかもしれない。
危険を避けるため本を暗記して本そのものは捨ててしまうのだ。
そこは、究極の世界。
…本がこの世からなくなったら、読書が禁止されたら…、なんて考えたくない世の中だが、1960年代という時代背景はテレビによる洗脳社会に対する漠然とした不安が存在していたのでは
ないだろうか。
ちなみに、この映画の監督トリュフォーは『ある映画の物語』という著作で、撮影日記を本にまとめているらしい。
それによると主演のオスカー・ヴェルナーとはかなり確執があったようだ。
挨拶もしないほど喧嘩ばかりだったとか。
監督の言い分によると、演出を無視して勝手に演技をしたり、
映画のラストシーンの撮影の日には、無断で髪を短く刈った姿で現れたとか。
そこまでやるとなると、トリュフォーにたいする嫌がらせかもしれないのだが、ヴェルナーの言い分も聞いてみたい。
相性が悪かったようだが、そもそも監督の意図したキャスティングでは、プロデューサーのOKが出なかったという事情もあるようだ。
そんな状態で良く映画を撮れたものだ…。
ちなみに「華氏451」は、「本のページに火がつき、燃えあがる温度」のこと。
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