× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 |
NHK-BS2で放映していた。 LDでは持っているはずなのにツイツイ観てしまう。 ストーリーとしてはたいしたことはないし(といってもちゃんと原作がある)、 共感したり感情移入できるような人物も登場しない。 が、効果的に流れるサイモン&ガーファンクルの音楽が映像とマッチしていて心地よく、またそれが 主人公の心情を良く表しているように思う。 初めて観たとき(随分前のことになるが)はカメラワークが面白い、と思ったのだが、 当時、私にとって斬新に見えただけで、今となってはありふれた手法かもしれない…。 しかし「面白い」と思った気持ちは強烈な印象となって残っている。 そして、これほど音楽を味方につけた映像は、他にはなかなかないだろう。 この映画のために書き下ろされた曲もいくつかあったそうだが、結局書き下ろし曲の中から 採用されたのは「Mrs. Robinson」だけ。 他は、既存のサイモン&ガーファンクルのナンバーが使われたそうだ。 なんというマッチング! 「Sound of Silence」も「April Come She Will」もこの映画のためにあるような曲に思えてくるから 不思議だ。 もちろん独立の楽曲としても素晴らしいのだが。 「卒業」を観ると思い出すのがヘルマン・ヘッセ作の「車輪の下」。 今回はなんとなく「青春の殺人者」(邦画)も思い出した。 どれも内容はまったく違うのだけれど、行き場を失い自分に共感してくれるものを求めているた若者を 描いている、という点で共通しているのだ。 音楽を味方につけているという点で「青春の殺人者」も共通していると思う。 しかもこちらも映画のための書き下ろし曲ではない。が、不思議とマッチングしている。 「卒業」はニュー・シネマの代表作、ベトナム戦争を背景にした時代の産物とも言われ、 ベンの行動は今となっては『ストーカー』以外の何物にも思えないが、 そういう味方をしてしまってはつまらない。 この映画は時代を超えるものを持っていると思う。 今回「卒業」を観て気がついたこと。 なんと「奥さまは魔女」のエスメラルダ役のAlice Ghostleyと、クララおばさま役のMarion Lorneが出演していたこと。 「奥さまは魔女」では、Marion Lorneが亡くなった後、ドジでにくめない魔女役ということでお手伝い役としてAlice Ghostleyが登場するようになった。 つまり二人は「奥さまは魔女」では共演していない。 とこらが、「卒業」では、シングルマン・パーティーの会場の入り口で二人仲良く並んで共演している。 そして、主人公ベンのお父さんは「Boy Meets World」のフィーニー先生ではありませんか…。 今まで気づかなかった…。 さらに付け加えると、有名なポスター写真でミセス・ロビンソンの「脚」を演じているのは 「ダラス」のスー・エレン役リンダ・グレイだそうだ。 originally written: 04-May-2004
PR |
内容が思いっきり根拠のない作り話の上に、「アマデウス」の二番煎じを狙ったような感じで、公開当時観る気がしなかったものだ。 「アマデウス」の二番煎じというのは当たらずといえども遠からず。 この映画は評価が二分するようである。 ベートーヴェンに扮するゲーリー・オールドマン(映画「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」ではそのアズカバンの囚人役シリウス・ブラックで出演)のファンか否かで分かれる(笑)ようである。 ファンか否かという言い方はあまりかもしれない。 ゲーリー・オールドマンがベートーヴェンに見えるか見えないかで分かれる、 と言った方がいいかもしれない。 私は、残念ながらベートーヴェンには見えなかった。 とはいえ、ピアノに耳を当てて「月光」を弾くシーンなどよく仕上がっていると思う。 そう、映画全体がベートーヴェンの音楽のイメージ映像と思えば、極上の出来なのである。 映画を彩るベートーヴェンの音楽はやっぱり素晴らしい。 その音楽がふっと止まり、ベートーヴェンの耳の聞こえない音の無い世界に入る…。 言い方を替えれば、気持ちよく音楽を聴いていたところで、それがいきなり切られてしまう… そんな聴かされ方に不満を持つ人もいるようだ。 だが、これはやはり映画。 音楽を聴くならばコンサートやCDで鑑賞するのが正解だろう。 これまでベートーヴェンの伝記を読んでも、音が聞こえない世界というのをあまり想像することがなかった。 頭の中で鳴っている音楽、でも耳からは聞こえない音…。 この映画ではそのの状況を見事に表現している。 そして、そこから察せられるベートーヴェンの悲しみ…あまりに、辛すぎる。 悲しいが故、映像は美しい…。 ここで思いっきりベートーヴェンに感情移入してしまうのだが、 映画では耳の不自由さをかなり誇張している。 ベートーヴェンの耳は徐々に遠くなったのであって、ソナタ「月光」の頃は遠くの音が聞こえないだけだった。 ピアノに耳をつけて振動で音を聴かなければならなくなるのは、晩年の頃だったはず。 (耳をピアノにつけたのではなく、歯から伝わる振動で音を聴いた、と記憶しているが…) 音楽家なのに耳がどんどん遠くなっていく…、それでも彼は音楽家であり続けた。 その不屈の精神を描いていないのは残念だ。 話の内容がフィクションで演出だらけで、 少ない資料から明らかになっている史実とかけはなれていることは、目をつぶろう。 …が、それだけフィクションをちりばめ、 音楽とマッチングした演出をしているのにもかかわらずストーリーとして説得力がないのだ。 ミステリー仕立てにしてので、不滅の恋人の正体を、 思いっきりあり得そうにない人物(つまりある程度史実を知っている人にも予測のつかない人物)としたのだと思う。 ベートーヴェンの不滅の恋人に関しては、様々な研究があり、知られていることなので、 当たり前の人物を選んだのでは、ミステリーとして成り立たなくなる。 それはいい。 でもそれならば、その根拠となる作り話をもう少し肉付けしてもらわないと説得力に欠ける。 ベートーヴェンが、弟の死後、甥のカールの後見に執着したことは事実だ。 この映画では、それは実は甥ではなく実の子だったからそれだけ執着したのだ、という作り話で、不滅の恋人の正体を裏付けようとしているが、それだけでは、ちょっと苦しいのではないだろうか。 ベートーヴェンを描くのに、根拠のない作り話をでっちあげてしまって、しかもそれが説得力に欠けるものであれば、興ざめしてしまう。 「アマデウス」にも根拠のない作り話が多分にちりばめられているが、あくまでも主題は、天才をうらやむ努力家の苦悩。 それを描くために、サリエリとモーツァルトを取り上げたのに過ぎないので、極端な話、サリエリとモーツァルト以外に置き換えても映画の主題は描くことができる。 それくらいしっかりしたストーリーを持っている。 それに対し、「不滅の恋 ベートーヴェン」では最初っからベートーヴェンを描いてしまっているところで大きく違っている。 ベートーヴェンをとったら何も残らないのだ。 ベートーヴェンをとったら何も残らないのに、そのベートーヴェンを正しく描いていない。 あくまでもイメージ先行。 イメージの切り貼りで、ベートーヴェンという人物が魅力的に立体的に映っていないのだ。
originally written:04-May-2004, 06-May-2004
|
2002年のクリスマスに全米で公開された映画。 スピルバーグ監督、トム・ハンクス、レオナルド・ディカプリオ共演ということで話題を振りまいた映画。 公開前にさんざん話題を振りまいたわりには、興行成績的にはひょっとして地味だった?という印象だったのだが、ニュースになるような記録を出さなかっただけのようである。 レオナルド・ディカプリオとしては、「タイタニック」に次ぐヒット作。 同時期に出演した「Gangs of New York」よりも、やはり近い時期にハンクスが出演した「Road to Perditon」より興行成績としては成功している。 では、なぜもっと派手な結果を残せなかったのか…。 面白いのだけど…いまいち…、という感じ。 詐欺師フランク(ディカプリオ)と捜査官ハンラティ(ハンクス)の追いかけっこはまるで「ルパン三世」を見ているかのようで面白い。 スリル満点でハラハラさせられるが、これが全部、実話だというのだから凄い。 逆に言えば実話だと知らなければ「どうせ作り話」と思ってしまい、かえって面白み半減かもしれない。 実話といっても、原作である「世界をだました男(新潮文庫)」の内容を大幅に脚色して組み替えている。 原作のエピソードを大胆に切り刻んで再構成しているのだが、オリジナルのストーリーの雰囲気を損なわず、かつ、映像向きに見事にアレンジされているのはさすがだと思う。 これは、ベテラン・ヒットメーカー監督の手腕だろうか。フランクが豪勢に贅沢に過ごす一方で、ハンラティがコインランドリーでシャツを全部ピンクにしてしまう場面など、追いかけっこだけでなく両者を対比しているのも面白い。 これは実は、原作にはないエピソードだ。 というかそもそもカール・ハンラティという捜査官は映画でのキャラクター(モデルになった人物は実在する)。 実際のフランクもFBIの捜査官に執拗に追われている。 映画ではそれをふくらませ、堅物で一本気で、でも人情味も感じられる一癖あるキャラクターに肉付けし、ハンクスが好演した。 ギリギリでスルリと逃げられてしまい、上司には出世のためにもっと検挙しやすい仕事を優先してやれ、と言われてしまう。 海を越えて、フランスまで追いかけるが、フランス警察からはまともに扱ってもらえない…。 それでもあきらめないで、逃亡者からなんとなく慕われるようになるってまさにルパン三世を追いかける銭型警部なんですが…。 詐欺師と捜査官の追いかけっこだけでも充分面白いストーリーなのだが、映画ではさらに事実とは違う味付けをしている。 追いかけっこというより、あくまでも詐欺師フランクを主役として描きたかったのだろう。 フランクが詐欺に手を染めるようになる背景も描いている。 成功者であった父親の事業が、ある日、下り坂になり、家族の暮らしは180度変わる。 両親が離婚する、という段階になり、フランクはそれに耐えられず、家出する。 フランクは、お金さえあればまた元の家族に戻れるのではないか、と考えるが、高校も卒業していないティーンエイジャーが金を稼ぐのは容易なことではない。 ひょんなきっかけから、詐欺に手を染める…という筋書きだ。 実は、フランクは詐欺の手口を父親の行動からから学び取っていると言えなくもない。 この辺は映画として脚色されているようで、この成功者である父親はかなり危ない橋を渡って成功への道を駆け上り、それ故、目をつけられたのか、グレーな部分を突かれて失脚したのかと思ってしまった。 原作を読む限り、実際には「危ない橋を渡って」というようなことはなかったようだし、アバネイル氏へのインタビューでも「honest man」だったと言っている。 フランクが詐欺の道へ走った動機にしても、ただ女の子と遊ぶお金が欲しかった、とそれだけのことのようである。 でも、詐欺の基礎になる下地は父親から教わった、くらいの方がフランクの行動を理解しやすい。 そして、詐欺の動機としても、お金さえあればまた元通りの家族になれる、という方が、主役に感情移入しやすい。フランクは、詐欺で稼いだお金で父親にプレゼントを贈るが、拒否されてしまう。 年を10歳サバを読んでも中身はティーンエイジャーのフランクと、 酸いも甘いもすべて噛み分け、おそらくはすべてお見通しの父親。 この父親役のクリストファー・ウォーケンが好演しているので、 父子の場面は映画の中でもなかなか捨てがたいものはあるのだが、 やはりここまで脚色して話を膨らませるのは余計だったのではなかったかと思う。 映画が「いまいち」になってしまった最大の理由。 フランクは、父親にプレゼントを受け取ってもらえず、両親の仲も戻らない、ということを告げられ、 ショックを受ける。 そんなことから、追跡者である捜査官ハンラティを慕うようになる、という図式もわかりやすい。 逃げ続け一人でいることの寂しさをまぎらわすために、フランクは、わざわざハンラティに電話をかけるのだが、これも余計(実際にもそんなことなかったとアバネイル氏はインタビューで答えている)。 クリスマスの時期に公開された(アメリカで)ということを考えると、 「毎年クリスマスになると話しているね」というフランクとハンラティの会話ももって生きてくるような気もするが、それだけのこと。 映画が生き残る、ということを考えてつくってないんじゃないか、と思ってしまう。 誰もがクリスマスに見るとは限らないし、実際に日本では、Gangs of New York とかち合うのを避けたのか、 春になってから封切りされた。 全米でそれなりに興行成績をあげて稼いでくれればそれで良かったのだろうか…。 もちろん公開時にパッと稼いでそれで終わりでいい、という映画もあるだろうが、 「Catch Me If You Can」は素材(原作)も面白いし、集まったスタッフ、役者も悪くないのだから、 (これに関してはディカプリオもなかなかのはまり役だと思う。 10年ほど前に、トム・クルーズで映画化される話が持ち上がったようだが…。) もう一ランク上を質を狙えたのに…と思うと残念で「いまいち」なのだ。 宣伝文句に使われていなかったので見るまで知らなかったのだが、音楽は John Willimas. 1960年代チックなアニメーションをオープニングにしたテーマ曲は雰囲気ばっちりで、やはりこの人は上手いなぁと思った。 続くいわゆる「ほんものは誰だ(To Tell The Truth)」のテレビ番組をパクった場面も面白い。 1960年代だけのテレビ番組というわけではないが、なんとなくレトロな感じで見せていて良い。 ただのお遊びかと思ったら、実在のフランク・アバグネイル(原作ではアバネイル)氏もこの番組に出たらしい。 ストーリーの中でも、フランクがスーツを仕立て、初代007のショーン・コネリーのジェームズ・ボンドを気取って見せたり、医者のにわか勉強をする場面では「ベン・ケイシー」らしきテレビ番組を見ているところなど、1960年代のエッセンスをちりばめている。 時代背景が1960年代なので当たり前といえば当たり前なのだが、思わずニヤリとしてしまう。 1960年代懐古が流行っている、と言ってしまえばそれまでだが、それならばなぜもっと1960年代の香りを出さなかったのだろうか? 詰めが甘くないか? 映像から、もっと1960年代の雰囲気が色濃く漂ってきたら、フランクの詐欺の手口ももっとリアルに見えたのではないだろうか。 最初のほうで「実話だと思わないと…」と書いたが、フランクの詐欺の手口は前時代的で、ネットワーク時代の現在ではとても通用しそうにない。 (ネットワークで瞬時に照会した時点でおそらくアウトになるのではないだろうか。) 1960年代はサインや裏書一つで通用したのかもしれない。 全編を通して1960年代ということを常に感じさせてくれるような絵であれば、フランクの詐欺の手口ももっとリアルに見えたのではないかと思うのだが、どうだろうか。 「いまいち」と思うもう一つの理由である。 素材は充分面白いのだから、 コメディ中心でもっと短くまとめて気軽に楽しめる(気軽に楽しむためにはやはり2時間越えちゃうと…ちょっと長い)作品に仕上げた方が、むしろ 一ランク上の出来になったのではないかと思う。 あれだけ大胆に原作のエピソードを切り刻んでそれでもエッセンスは損なっていないのだから。 参考 アバネイル氏のページ:http://www.abagnale.com/ (英語) originally written: 10-Mar-2004
|
アカデミー賞受賞なんていうハクが付いてしまったので、大作かと思われてしまうのが、この作品の不幸だと思う。 シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」そして「十二夜」に続く巧妙なパロディだからだ。 歴史モノのコスチューム・プレイというだけで、映画の作りとしては大げさになってしまいがち。 しかも、扱うのはシェイクスピアという古典(クラシック)。 クラシックとなると格調高く敷居が高い感じ。 …というのは、実は間違い。 シェイクスピアの戯曲だって、最初は庶民的な娯楽だったのだ。 エリザベス一世の治世というと、英国が発展した時代ではあるが、当時の英国はまだまだ小さい国。 エリザベス一世が治める世界はかなり小さく、エリザベス女王は女王とはいえ、 庶民にとって雲の上の人、というほど天上人ではなかったはず。 だから、この映画も庶民的なノリで軽く楽しむパロディだと思えばいいのだ。 ヴァイオラの男装は男に見えない、とか、あんな簡単に恋に落ちていいのか、とかそんな細かなことを考えては駄目だろう。すべて作り話なのだから。 だいたい、役者トマス・ケントを追っていったはずなのに、行った先でヴァイオラに会って恋に落ちる… 観ている方は、トマス・ケント=ヴァイオラだと知っているからなんとなくごまかされてしまうが、その時のシェイクスピアは二人が同一人物だとは知らない。 そんな簡単に一目惚れしていいのか? ヴァイオラはシェイクスピアのファンで劇場にしばしば通っていたわけだから、 一目見て恋に落ちるくらいの美女(シェイクスピアにとって)ならば、もっと早く見初めていてもいいのではないか…とかいろいろ突っ込みどころはある。 でも、それを気にしていたらこの映画は楽しめない。 ハッピー・エンドではないのだが、全てお見通しのエリザベス女王は、 女が舞台に上がったことを簡単に許してしまう。 女王の立場で、そんな簡単に例外を認めてしまっていいのか、とも思うが、 その辺は「男の仕事をする女もいる」の女王の言葉に集約されている。 |
今までちゃんと見る機会がなかったんですね…。 映画製作にたくさんお金をかけたであろう、ということは容易に推測できますが、そのわりには、全体のバランスがとれていない、といいますか…。 登場人物が多すぎて、それぞれの事情が複雑に絡み合っている割には、どの人物も描き方が中途半端。
|
この邦題は何といっていいのやらかなり頓珍漢。 オードリー・ヘップバーンが「ローマの休日」に出演する前の映画。 主役のヒロインを演じる妹という役で出演しており、それなりに出演シーンはあるのだが、 おそらくバレエができるということでキャスティングされたのだと思われる。 台詞よりバレエで踊っているシーンの方が多いかも…。 「初恋」という邦題から甘い話なのかと思ってしまうが、まったく違う。 独裁政権打倒のための秘密組織のボス的存在である昔の恋人に、 主役のヒロインが利用され苦しみ悩む、というサスペンスタッチありのストーリー。 思うのは、主役のヒロインにもうちょっと若く見える女優さんをキャスティングしなかったのはなぜ? あるいは、なぜメイクなりなんなりでもう少し若々しい感じにしなかったのはなぜ? 終盤で、髪を染めて美容整形した後はそれなりに華やかな感じになったが、 ほんとに整形までせずに(ストーリーでは美容整形と言っているけどそこまではたぶんしていない) メイク技術で変身させるために、最初があんなにやぼったい(!)感じなのだろうか…。 役柄は、演技として難しい部分もあると思うので、 誰でもいいから美人、というわけにはいかないのだろうが。 ストーリーを100分程度にうまくまとめたのはなかなか。 |
英仏の合作。 フランスのお話なのでいっそのことフランス語の方が良かったのではないかと思うのだが、英語。 『マダム』『ムッシュー』なんていう語はそのまま使われているのですが、なんだかねぇ…。 “宮廷料理人”というのは日本でつけられた邦題のおまけ。原題は「Vatel」。 映画を見終わって思うことは、原題そのままの方がよっぽどよかったのでは…。 とはいっても「ヴァテール」という人名にピンとくる日本人はほとんどいないだろうし、 難しいところ。 ホイップ・クリームの考案者だなんて知らなかった。 ヴァテールの料理人としてのこういったエピソードはさりげなくストーリーに織り込まれている。 宮廷料理人というおまけが余計、と言ったのは、映画で描かれているストーリーでは、ヴァテールは 料理人というよりもむしろイベント・ディレクター。 イベントの中心となる料理のメニューを考えてはいるが、実際にそれを作っている暇などほとんどない。 料理と共に楽しんでもらう余興まで全て計画、実行しなければならないからだ。 そして裏方のトップとして奮闘する姿をえがいているのがこの映画。 そして「ヴァテール」は「シラノ」とはまったく違った雰囲気をもつ人物で、 同じドパルデューとは思えないくらい。 とはいってもあの特徴ある顔はドパルデュー以外の何者でもないけれど。 こんな役も難なくこなしているところがドパルデューの上手いところなんだが、 「お茶目さ」がないのが残念。そういう役なんだから仕方ないのだが。 映画を観ると、 当時の貴族っていうのがいかに嫌なタイプの人間かというのはよくわかるが、 「ヴァテール」がなぜ自殺したのかは…はてさて何と言ったらいいのやら、すっきりしないものが残る。 恋愛話がからんでしまって、むしろ、本質から遠ざかってしまったのではないだろうか。 |
忍者ブログ [PR] |