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2001年の映画。 公開前に予告編を見て興味を持ったのだが、わざわざ映画館まで足を運ぶまでにはいたらず。 公開されて、特別、評判が良い、というわけでもなかったようなので、DVDが発売されてもわざわざ買うまでにはいたらず。 テレビでやらないかなぁ、と思っていたら、放映してくれた。 公開からもう3年もたっているのだから、Movie Plus 1 のようなチャンネルにおりてきても不思議はない。 予告編(あるいは宣伝文句)を見てこの映画に興味を持った人は多いと思う。 障害者である父と娘(当然かわいい子役)の愛の物語にビートルズ・ナンバーをちょっとメローにちりばめて…と、言い換えれば、興味をひくための要素はてんこもりとも言える。 ふたをあけて、映画の評価については様々。 障害者を演じたショーン・ペンが凄い、と評する人もいるけれど、レインマンのダスティン・ホフマン、フォレスト・ガンプのトム・ハンクス、などいるわけだから、役者ならあれくらい演じられて当たり前。 子役のダコタ・ファニングが可愛い、という意見もあるが、子役の場合、天性の素質のようなものが大きくかかわってくるので、そのような子役を見つけてキャスティングした人が偉いのだ。 …というか、平凡な子役をキャスティングしてはこの映画の要を失うようなものなので、映画のキーである以上、これも当たり前。 ビートルズ・ナンバーを効果的にちりばめているのは好感が持てるが、すべての人がニヤリとできるかというとそうでもないような気がする。 特に英語詞が聞き取れなければつまらない。 本当はすべてオリジナルを使いたかったらしいが、著作権許諾か使用料の関係か何かで断念、全編カバーで代用したという裏事情があるようだ。 かなりオリジナルに忠実なアレンジばかりだったので、これならばオリジナルを使ったほうが…と感じたのだが、なかなかそうもいかないのが現実のようである。 「アビー・ロード」のジャケットをパロッた横断歩道の場面など、知っていればニヤリとできるけれど、どれだけポピュラーかというとちょっと疑問。 ビートルズの視覚的なパロディというと、あとはショーン・ペン演じるサムが、いわゆるビートルズ・ルックとも言えるスーツを着ているシーンがあったことくらいだろうか。 予告編の映像に使うには充分だが、結局それ以上のものがないというのは、ニヤリ度不足。 そもそも、当初はビートルズを使う予定はなかったのだとか。 ところが、障害者の方にはビートルズ・ファンが多い、という事実から、ビートルズを使うことにしたのだそう…。 それで使い方が中途半端なのか…と妙に納得してしまった。 BGMとしての使い方は合格点だと思うが、ストーリーにも深くかかわってくる部分で何かこういまいちなものを感じた。 サムの部屋に張ってあるのがジョン・レノンのポスターだということから、ビートルズのメンバーの中でもジョンがお気に入りなのかな…と思わせておいて、最後に、思いっきりジョージ・ハリソンを持ち上げるっていったいどうなのよ? 引っ越した先が9番地というところまではジョン・レノンをひきずっているけれど(映画の中ではちょっと説明不足かも)、その部屋にはジョン・レノンのポスターを貼っていない、というのは、弁護士リタの入れ知恵なのか何なのか…。 マニアックなことについては映画の中である程度台詞の形で説明されるが、そのマニアック度の粒がそろっていないと言うか、中途半端な感じがした。 ストーリーは、しょせんおとぎ話かなぁ、と思った。 娘が父の知能を越えてしまう7歳で問題がいろいろと起こり、大きく状況が変わっていくのだが、それまで無問題だったかというとはそうではないはず。 どう考えても、かなりのサポートを受けていなければ、7歳まで無事育てた/育ったとはとても思えない。 映画としては、事件は一気に起きてくれないと話にならないので、多少の飛躍は仕方ないことはわかるが、 …となるとだらだら描きすぎ…いえ、完結にまとめようとの工夫は感じられが、もっと要素を絞った方が良かったんじゃないかな…と。 「All You Need Is Love」…これがこの映画のメッセージ。 ビートルズの有名なナンバーのタイトルでもある。(最近では Love Actually で使われている。やはりカバー) これだけビートルズ・ナンバーをちりばめながら、All You Need is Love だけは、実はまったくサウンドトラックとして使われていない、というのは不思議。 それでも、嫌というほど All You Need is Love というメッセージを感じる。 が、「Love」だけで生きていけるほど世間は甘くないのが現実。 一応、映画の中でその現実にも触れておきながら、最終的には無視している。 そのため自己矛盾を抱えてしまっている。 だって、世間は甘くないから、サムはルーシーを押し付けられて残されたわけでしょう? (かなり意地悪な見方をすれば、ルーシーが本当にサムの娘かどうかも怪しい) 売春婦にひっかかって逮捕歴もついてしまった。 あの場合は、現行犯という形で未遂で捕まったのがむしろラッキーだったとも言える。 もしあのままサムがカモになってしまう、というケースだって充分考えられる。 残念ながら、世の中、良い人ばかりとは言えない現実がある。 そんな世の中でサムは無防備すぎる。 最後に「Love」で片付けてしまうのはなんともお気楽なエンディングと言わざるを得ない。 健常者だからといって完璧な親あるいは人間になれるとは限らない。 誰もが、失敗をすることもあり、時には深く後悔することもある。 でも、みんな試行錯誤を繰り返しながら生きている、ということを、裁判でリタはえぐり出していく。 「Love」よりもそちらをもっと前面に出しても良かったのではないか?
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1998年のドイツ映画。 ローラがひたすら走る映画なのですが、ただ走ったのではマラソンになってしまいます。 そこで、同じ条件で僅かながら状況を変えて、3回、ローラは走ります。 2回、時間が巻き戻されるのですが、僅かながら状況が変わることによって、3つのエンディングは異なります。 最初の2回はバッド・エンディング。最後の3回目は、妙に良くできたハッピー(?)エンド。 バッド・エンディングだとちょっとした挿入場面のあと、時間が巻き戻されて最初に戻るので、良くも悪くもゲーム的と言われているようです。 ゲームならばランダムな要素に左右されて、次の展開が変わることもあるかもしれませんが、これは映画。 3つのパタンは、僅かながらに状況が異なっていることはわかりますが、もう少しその変化に説得力を持たせて欲しかったように思います。 でも、ちょっと違ったら最後は大きく違うよ、ということを描きたいのではなくて、ローラが走る姿を描きたい、ということであれば、このようになってしまうのも仕方ないのかも。 ローラが走る理由というのが、情けない恋人のために金を用意するため。 リミットは20分。 手っ取り早く、銀行頭取の父の元へ走る、というわけです。 ローラが走る、ということにこだわらなければ「走って行く」「自転車で行く」「ヒッチハイクする」とかいろいろなパタンが考えられます。 そのように状況をずらした方が、面白かったようにも思うのですが、ローラをとにかく走らせたい、というのであればしょうがない…。 そんなわけで、アイデアは悪くないのですが、、ストーリーとしてみると、かなりどうしようもない…。 そこを、斬新な映像表現とBGMのテクノサウンドが補っています。 見ているほうが目が回らない程度にスピード感があります。 ストーリーをもって練りこめば、もっと上質な映画になったように思います。 最後のパタンで、カジノに行って大金を get しちゃう、というのはなんとも安直で、もっとどうにかならなかったものか、と悩んでしまいますが。 |
1941年のアレクサンダー・コルダ監督の英作品。でも、米国で撮られている。 ヴィヴィアン・リー、ローレンス・オリビエ出演。 1939年に製作された「風と共に去りぬ」から比べると見劣りしてしまうが、 当時としては、かなり力の入った作品だったのだろう。 時はまだテレビ時代の前。 大河ドラマなみには力が入っている。 ちなみに、第14回(1941年度)アカデミー賞の音響賞を受賞したほか、 美術監督装置賞(白黒)、撮影賞(白黒)、特殊効果賞にもノミネートされた。 映画の終盤、オリビエ扮するネルソン提督が命を落とすことになった海戦のシーンを、 ストーリーの味付け以上に長く時間をとっているのは、当時としての特撮に力の入っていた証拠だろう。 今ではクラシック映画ファンしか見ないような作品になってしまったようだが、 もっと登場人物の心情を丁寧に見せる、役者の演技に頼るような作品に仕上げていれば、 また違った評価が残ったようにも思う。 当時としては、これがエンターテイメントだったのだろうと想像するが…。 ヴィヴィアン・リーは主役のハミルトン夫人を演じている。 映画の中のエマ・ハミルトンとネルソンをなぞらえたかのような恋愛経験を経て、 ヴィヴィアンとオリビエが晴れて夫婦となることができた頃の共演作品。 そして、これは実際にあった出来事をストーリーとした作品でもある。 もちろん脚色はされている。 ネルソン提督は実際には、かなり小柄で冴えない風貌(右目に右手を失っていれば当時としてはそうだろう…)だったようだが、ローレンス・オリビエが演じれば、片目でも片手でもかっこいい。 ハミルトン夫人は、その美貌故、結婚により英国の階級社会の階級の壁を越えてしまう女性。 肖像画が残っているが、美人というよりかわいらしい感じで、丸顔。 同じ美人でも、面長のビビアン・リーとは雰囲気が違う。 映画にあるように、ナポリの王妃の信頼を得て親しくつきあっていたのは事実のようで、ただ美人なだけでなく、頭の良い女性で、努力もしたのだろうと想像できる。 身分の低いエマを妻に迎える Sir. ハミルトン。この人が一番謎。 エマは、もともと Sir. ハミルトンの甥の愛人だった。 エマが Sir. ハミルトンの元へ送られた理由についてはいろいろ言われている。 その甥が自分の結婚を考えるうえで愛人エマが邪魔になったとか、 借金のカタにされたとか、甥が Sir. ハミルトン の遺産を狙って再婚しないように愛人エマを送ったとか、 今となっては真実はわからないが、いずれにしても、上流階級の御都合主義である。 遺産狙いで Sir. ハミルトン が再婚しないための愛人だったとしたら、 そのエマと結婚してしまうのだから、甥としてふはんだりけったりだっただろう。 (とはいえ、映画のように、エマが辞退したのかどうかは定かではないが、遺産は結局その甥が相続した。) 映画では、エマ(とその母親)は、上流階級の男性との結婚によりステップアップすることを夢見ているが、実際にそんな野望を持っていたかどうかはわからない。 英国の階級社会というのはそんなに甘くないはずだ。(しかも18世紀) Sir. ハミルトン が何を考えたのかはわからない。 映画の中のセリフにあるように、妻も自分の美術収集品の一つと同じレベルだったのかもしれないし、ただ魔がさしただけかもしれない。 妻という形でなければ、エマをつなぎとめておけなかったとは思えないのだが、Sir. ハミルトンは、身分の低い小娘と再婚し、小娘は Lady Hamilton としてナポリの社交界に出入りするようになる。 その御、ネルソン提督に出会い、お互い配偶者を持つ身の上でありながら恋に落ちる。 Sir. ハミルトンが、この二人の仲を黙認していた風であるところがまた不可解である。 Sir. ハミルトンが、その気になれば、エマとネルソンの間を引き裂くことなどそう難しくはなかったと思うのだが、騒ぎ立てるには歳が離れすぎていたということか…。 一方、エマとネルソンが惹かれあったのは何故だろう。 ネルソンがエマに惹かれるのはわかるような気がする。 エマは美人で頭が良い。 脚色がかなり入っていると思うが、映画では、エマは機転をきかしてネルソンに助力する。 ネルソンの妻はいることはいるが、形ばかりで長いこと会ってもいない。 そんなときにエマのような女性に会ったら…。 当然の展開といえるのではないだろうか。 では、エマはネルソンに惹かれたのは何故か。 史実の上でのネルソンは決して魅力的な風貌ではない。 親子ほども離れているエマの夫に比べれば歳が近いというだけ。 ナポリの社交界にはいくらでも、エマにとって魅力的な男性がいたように思うのだが、なぜネルソンだったのか。 これも真実はわからないし、人を好きになるには理由などいらないが、 そこをあえて邪推してみれば、身分だったのかもしれない…。 エマは Lady Hamilton となり、ナポリの宮廷にまで出入りできるようになったいわば下克上娘。 ネルソンも出自は低い。小さな教区の牧師の息子だ。 海軍での働きにより出世した。 エマとは通じるものがあったのかもしれない。 映画では、ローレンス・オリビエがかっこよくネルソンを演じている。 脚色もされているに違いないが、二人が惹かれあって行く様子は無理なく描けていると思う。 納得はできるが見る側が共感するところまで描きこんでいないところがこの映画の弱いところかもしれない。 だから、美しい絵巻物を見ているようには楽しめるが、それ以上のものはない。 映画史上にも残る有名なセリフ「2世紀に渡るキスをした」というのも絵空事のようにしか聞こえない。 それでも、娯楽映画なのだから、絵空事でもまったくかまわない。 昔の映画で良いと思うのは、幕切れが鮮やかなこと。 映画の製作にはたくさんの人が関わっているにもかかわらず、その人たちすべての名前がクレジットロールとして流れないのは、それはそれで残念なことではあるのだが、「End」とか「Fin.」と中央に出てそれでおしまい、というのはむしろ強烈な印象を残す。 この「美女ありき」では、ラストシーンは再び、冒頭の場面に戻る。 ネルソンの死後は、生きる屍のようになってすっかり老け込んでしまったエマが美しかった頃を思い出して語るという構成なのだ。 エマは Sir. ハミルトンの遺産を受け取れなかった。映画では自らの意志で受け取らなかったことになっているが、何が本当かはわからない。 そんなエマにネルソンは遺産を残そうとしたらしい。 が、これもエマは受け取れない。 結局、借金をかかえて貧窮し、なぜか、フランスのカルーに渡るのだが、その辺のいきさつも映画ではいっさい語られない。 ネルソンの死でエマの美しかった時代は終わる。 そして残酷にも、映像は昔の面影をほとんど残さないエマを映し出す。 この老けメークをしたビビアン・リーは度胸が良い、と思うが、映画として非常に効果的である。 美しかった絵巻がよけいに引き立つ。 |
SUPER CHANNELで放映していたのを観た。 21世紀になった今、見ると、いろいろ古くさいところが気になってしまう1964年のモノクロ映画。 同時期に「博士の異常な愛情」が作られている。 原子爆弾、米ソの対立…時代の産物によるテーマということだろうか。 主人公らしい主人公が不在のこの映画、 前半はいろいろな人物がいろいろな場面で入り乱れ、よくわからないまま話が進行していく。 グッと引き込まれるのは、ヘンリー・フォンダ演じる大統領が登場する辺りから。 ここからの緊迫感、緊張感でグイグイ引き込まれる。 前半で複数の登場人物の背景を語っておきたかった製作者の気持はわからなくないが、背景を語られない人物もいることを考えると、前半は少々冗長だったのではないか。 今、映画化するとしたら、ラストの衝撃的なシーンを如何に映像化するかに力点が置かれてしまいかねない。 が、そこは1960年代。 人間ドラマに仕上がっており、またそこがこの映画の魅力と思われる。 最終的に全責任を負う米大統領は、ある意味、孤独な存在だが、そこにロシア語通訳として一人配置させているのが絶妙だ。 この通訳を演じているのが、若き日のラリー・ハグマン。 TVドラマ「ダラス」のJ.R.の頃と比べると別人みたいにスリム…というのは関係ないが、個人という立場を殺すべき役柄をうまく演じていると思う。 あってはならないことを描いているこの作品。 派手さはないし、現在とは時代背景はまったく異ってしまったが、それでも考えさせられるものがある。 |
一応、レオナルド・ディカプリオが主演ということなんですが、これは、脇役4人を見る映画です。 つまり、ダルタニアンと元三銃士演じるおじさん(!)俳優の名演技と、豪華な衣装、ロケを楽しめば充分。 双子を一人二役で見事に演じ分けたディカプリオという評判も聞きましたが、どこが?って感じ。 ルイ14世/フィリップ役は、おそらく誰が演じてもあまり関係ないでしょう…。 4人も似たような役どころの脇役がいたら、誰が誰だかわからなくなっても不思議はないですが、それがきちんと描き分けられているのは、役者の力量。 それぞれ個性豊かに、立体的にそれぞれの人物を映し出していると思います。 それは原作の話か? そのおじさん達は、ガブリエル・バーン(ダルタニアン)、ジェレミー・アイアンズ(アラミス)、 ジョン・マルコビッチ(アトス)、ジェラール・ドパルデュー(ボルトス)。 物語の佳境で、4人が、昔の銃士の制服で現れる場面は、「かっこいい」の一言につきます。 残念ながらテレビの画面でしか見たことがないのですが、この場面を映画館の大スクリーンで見たらさぞかし迫力があったことでしょう。 ストーリーは…、デュマの有名な小説がベースなのですが、おそらくこの小説をちゃんと読んだことをある人は少ないのではないかと思います。 が、ダルタニアン物語、三銃士、鉄仮面…どれもどこかで聞いたことがあるような話。 おそらく、デュマの小説をさらに脚色、翻案、ダイジェストした形で伝え聞いているケースの方が多いのでは。 デュマの小説にしても、まったくの創作というわけではなく、そのベースには史実があります。 鉄仮面については、伝説化していますが、デュマの作品とは別に、脚色された話が出回っています。 そんなわけで、なんとな〜く知っているけどよくはわからない、という話をぐっと凝縮して(?)見せている映画でもあるのですが、きっとそこには、映画化にあたってさらなる脚色がされていて…という具合に結局大元の話とはかなりかけはなれていることは間違いありません。 とにかくひろ〜くあさ〜く面白そうな要素を適当に詰め込んでストーリーを作っていますから、リアリティはありません。 いくらなんでもそんなわけないでしょう、の連続なのですが、そこを言ったらおしまいなので、深く考えずに豪華絢爛なフランス時代劇を楽しむべき。 映画の尺がやたらと長いですが、肩の力を抜いて楽しむエンターテイメントです。 そしてそのエンターテイメントを支えるのが、豪華な衣装と贅沢なロケ収録。 そしてしぶ〜いおじさまたちの演技、というわけです。 |
スターウォーズ/エピソード2 クローンの攻撃のDVDが発売になった。 エピソード2は映画館で1回観た。 もう一度観ようかどうしようか考えて、結局、DVD発売まで待ってしまった。 半年後に出るとわかっていると…ね。 日本語吹き替え、字幕両方で楽しめてメイキング映像までついている。 お得感あり。 早速買ってきたが、ゆっくり楽しむのはお預け。 それでも、ちょっと冒頭だけでもとかけてみる。 メニューが出てくるまでがまだるっこしい。 メニューがさっと出てこなければいったい何のためのメニューなのだか。 この辺のつくりは、改めて欲しい、ほんとに。 日本語音声にしてみた。 オープニングシーンは、家庭用TVで見ることを考えて、字を大きめにしたのだろう。 でも、ちょっとね…。雰囲気出ない感じ。 吹き替えだったら、この際だから、若山弦蔵さんのあのしぶ〜いナレーションの方がしっくりくる。 ようするに既にすりこまれているのかもしれないが(苦笑)。 思いきってヴォリュームは大きめでかけてみたが、やはり画面が小さい。 最近の DVD は、4:3TVで見ることなんて想定していないに違いない。 だったらTVを買い替えるかというと、音は良いし、まだまだ使えるのでその気にはなれない。 いっそのことプロジェクターが欲しい、とこの間からひそかに(?)叫んでいるのだが、当たらないものだろうか。 一応、あちこち応募してみたりしているのだが。 |
1996年の米作品。 主人公のメアリー・ライリーにジュリア・ロバーツ、 ジキル(ハイド)にジョン・マルコヴィッチ 。 ジュリア・ロバーツが出ているので、バリバリの米作品と思いきや、 英国系統の監督、英国演劇界で活躍する正統派俳優を集め、 19世紀のロンドンを丁寧に再現している。 米資本の英国映画の雰囲気(笑)。 「Mary Reilly」はジキルの屋敷のメイドの視点から書いたヴァレリー・マーティンのと著作でそれを映像化したもの。 映画の印象は、何がなにやら焦点がぼやけてしまった作品。 メアリー・ライリーは、肉親である父親に虐待された過去を持つ。 その虐待された時の傷跡を残すメアリーと、ハイドの人格を内に秘めたジキルの思いが交差して行く様子を描いている。 ハイド的人格というのは、世間一般には受け入れられないものだが、メアリーはそれを理解しようとするらしい。 が、メアリーの考えていることが今一つわからない、というか伝わってこない。 ジュリア・ロバーツの演技力不足なのかも…。 一方、ジョン・マルコヴィッチは、その演技力でジキルとハイドを見事に演じ分ける。 映画だと、特殊メークなどでジキルとハイドを全く違う風貌にしてしまうことも可能だし、極端な話、 別の俳優に演じさせることも可能。 原作にあるように、風貌だけでなく背の高さまで替えようとなると、 特殊メークや撮影技術を駆使することになり、変身シーンをどう演出するか、 それが映画を作っていくうえで面白いところとなり得る。 …が、ジョン・マルコヴィッチのジキルとハイドは極端に風貌を変えるわけではない。 『ジョン・マルコヴィッチの演技を観る映画』という映画評はまさにその通り。 …なのだが、ラスト近くに唯一ある変身シーンはまったくもって興冷め。 CG なんだか SFX なんだか、(映画の製作時点で)最新と思われる技術を駆使して いるように見受けられるが、せっかく演技で2つの人格の違いを見せてきたのだから、 あそこで映画的手法を見せつける必要はなし。 あんな手法をとらなくても、変身するジキル(ハイド)の苦痛は描けるはずだ。 あそこまで生々しく(グロテスクとも言える)しなくても、ジキルとハイドが同一人物で あることは、視聴者には最初からわかっていることだ。 登場人物であるメアリーは、実際に変身を目撃することによってすべてを理解することになるのだが、 それでもCG効果は必須ではないだろう。 グロテスクといえば、映画の冒頭から随所にホラーまがいのシーンがたくさん織り込まれている。 メアリーの心理に重ねて、視聴者の恐怖心をただ煽りたいだけなのか、よくわからない。 確かにメアリーは恐怖を感じているかもしれないが、じっくり描くべきなのは、その恐怖に潜む心理だ。 ジキルとハイドを離れたメアリーがらみの場面は、それがどれだけ映画にとって必要なのか少々疑問を感じる。 メアリーの心理は、その背景をやたらと描くのではなく、演技で表現すべきものではないかと思うのだが…。 もしかしたら、原作(「メアリー・ライリー」)には描かれている場面なのかもしれないが、 文章と映像では表現方法が変わってくるものだろう…。 ジュリア・ロバーツ以外(失礼!)、その心理を描くには充分な役者が揃っていると 思われるのだが、それを生かしきっていないのは残念。 …とはいえ、ジュリア・ロバーツくらい出ていないと、映画としては人を呼べないだろうなぁ、とも思えるので仕方ないのかもしれない。 良いものを作るだけの材料はそれなりに揃っているのに、それを生かしきっていない、 かつ、料理方法を間違えているって感じの映画だ。 (うっかり間違えればただのホラーのまがいもの) |
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