1996年の米作品。
主人公のメアリー・ライリーにジュリア・ロバーツ、
ジキル(ハイド)にジョン・マルコヴィッチ 。
ジュリア・ロバーツが出ているので、バリバリの米作品と思いきや、
英国系統の監督、英国演劇界で活躍する正統派俳優を集め、
19世紀のロンドンを丁寧に再現している。
米資本の英国映画の雰囲気(笑)。
「Mary Reilly」はジキルの屋敷のメイドの視点から書いたヴァレリー・マーティンのと著作でそれを映像化したもの。
映画の印象は、何がなにやら焦点がぼやけてしまった作品。
メアリー・ライリーは、肉親である父親に虐待された過去を持つ。
その虐待された時の傷跡を残すメアリーと、ハイドの人格を内に秘めたジキルの思いが交差して行く様子を描いている。
ハイド的人格というのは、世間一般には受け入れられないものだが、メアリーはそれを理解しようとするらしい。
が、メアリーの考えていることが今一つわからない、というか伝わってこない。
ジュリア・ロバーツの演技力不足なのかも…。
一方、ジョン・マルコヴィッチは、その演技力でジキルとハイドを見事に演じ分ける。
映画だと、特殊メークなどでジキルとハイドを全く違う風貌にしてしまうことも可能だし、極端な話、
別の俳優に演じさせることも可能。
原作にあるように、風貌だけでなく背の高さまで替えようとなると、
特殊メークや撮影技術を駆使することになり、変身シーンをどう演出するか、
それが映画を作っていくうえで面白いところとなり得る。
…が、ジョン・マルコヴィッチのジキルとハイドは極端に風貌を変えるわけではない。
『ジョン・マルコヴィッチの演技を観る映画』という映画評はまさにその通り。
…なのだが、ラスト近くに唯一ある変身シーンはまったくもって興冷め。
CG なんだか SFX なんだか、(映画の製作時点で)最新と思われる技術を駆使して
いるように見受けられるが、せっかく演技で2つの人格の違いを見せてきたのだから、
あそこで映画的手法を見せつける必要はなし。
あんな手法をとらなくても、変身するジキル(ハイド)の苦痛は描けるはずだ。
あそこまで生々しく(グロテスクとも言える)しなくても、ジキルとハイドが同一人物で
あることは、視聴者には最初からわかっていることだ。
登場人物であるメアリーは、実際に変身を目撃することによってすべてを理解することになるのだが、
それでもCG効果は必須ではないだろう。
グロテスクといえば、映画の冒頭から随所にホラーまがいのシーンがたくさん織り込まれている。
メアリーの心理に重ねて、視聴者の恐怖心をただ煽りたいだけなのか、よくわからない。
確かにメアリーは恐怖を感じているかもしれないが、じっくり描くべきなのは、その恐怖に潜む心理だ。
ジキルとハイドを離れたメアリーがらみの場面は、それがどれだけ映画にとって必要なのか少々疑問を感じる。
メアリーの心理は、その背景をやたらと描くのではなく、演技で表現すべきものではないかと思うのだが…。
もしかしたら、原作(「メアリー・ライリー」)には描かれている場面なのかもしれないが、
文章と映像では表現方法が変わってくるものだろう…。
ジュリア・ロバーツ以外(失礼!)、その心理を描くには充分な役者が揃っていると
思われるのだが、それを生かしきっていないのは残念。
…とはいえ、ジュリア・ロバーツくらい出ていないと、映画としては人を呼べないだろうなぁ、とも思えるので仕方ないのかもしれない。
良いものを作るだけの材料はそれなりに揃っているのに、それを生かしきっていない、
かつ、料理方法を間違えているって感じの映画だ。
(うっかり間違えればただのホラーのまがいもの)
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