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これは映画館で観た。良い映画だ…と思う。 しかし、手放しで拍手賞賛を送ることができない。 たくさん人が死ぬし、最終的に悲劇なので、後味の良い映画とは言えない。 結局何を描きたかったのか…、今一つ焦点がぼやけているような気がしてならない。 製作者の意図は唯一つ、映画の題名「Road to Pardition」の通り、一組(※ 二組ではない!)の父子のロード・ムービーだ。 凍りついていた父子の心は、最後にパーディションに至った時に、溶ける。 さらに言うと、父子のロード・ムービーというのは、「子連れ狼」がアイデアの元らしい…。 まぁ、まず日本語タイトル「ロード・トゥ・パーディション」はいただけない。 パーディションが地名だとわかる日本人はまずいない…。となると、ロードがRoad(道)なのかどうかもはっきりしない。 ありきたりだが「パーディションへの道」くらいにできなかったのだろうか。 そのままカタカナというのは最近の傾向だが。 次に宣伝の仕方。 宣伝の常套手段として当たり前のことだが、トム・ハンクス、ポール・ニューマン、 ジュード・ロウ、この3人を全面に出している。 いったい誰が主役なんだか、どこが父子のロード・ムービーなんだか…。 映画の語り手はトム・ハンクス演じるマイケル・サリヴァンの息子マイクだ。 この子供マイクが主役のうちの一人なのだ。 そのわりには、子役ということもあるだろうが、存在感がいまいち薄い。 オーディションで選び出した無名の子役を、宣伝に使っても集客力の足しになるかどうか怪しいので仕方ない。 そんなわけで、物語りの焦点がいまいち不明のまま、最初は話が進行していくのだ。 子役の存在感がいまいちなことを除けば、 他のキャスティングはなかなか絶妙とも言える。 ポール・ニューマン…すっかりいいおじいちゃん役者になった。 年老いてもなおもかっこいい。 ルーニー役はポール・ニューマン以外考えられなかった、とパンフにもあるがその通りだ。 難点を言えば、少々ノーブルすぎないか? トム・ハンクスが冷血無常なギャング役とは意外な人選、というようなことが パンフに書いてあったように思うが、たぶんこの人なら何をやらせても うまくこなすに違いない。はまり役かどうかはわからない。 …が、間違いない配役だった。 ジュード・ロウは、トップ3人に名を連ねている、ということは、物語の途中で 姿を消すことはなく最後に必ずもう一度出て来る。 つまりラストの悲劇は充分想像できるのだ。 想像できても、どういった形で登場するかはわからない。 再登場を想像できてしまうだけに、あの演出は鮮烈だった。 そして、顔面傷だらけだったのも迫力満点だ。 ラストに限らず、不気味さ、得体のしれなさ、どことなく漂う異常な雰囲気、すべてはまっていた。 とはいえ、ジュード・ロウでなくてはいけない理由はなかったと思う…。 集客力の足しにするいはジュード・ロウだったのかもしれないが。 そして、キーパーソン。コナー・ルーニーを演じるのがダニエル・クレイグ。 コナーはすべての事件の発端である。 コナーさえ、バカをやらなければ、すべての悲劇は起こらなかったともいえる人物。 しかし、事件の発端は物語りを始めるきっかけにすぎない。 パンフにあるように、比較的名前を知られていない役者を配したのは英断だ。 冷めた目で見れば、上手な役者を配しているのだから、役にそれなりにはまっているのは当たり前といえば当たり前。 この人でなきゃ、という必然性まで感じられない。 上手い役者、集客力のある役者を揃えてご苦労さま、ってところだろうか。 ストーリーの難点を言えば、ジュード・ロウ演じる殺し屋マグワイアが、実に都合の良い場面でしか出て来ないという点だ。 マグワイアにサリヴァン殺しが依頼された時点で、父子の逃避行の物語になるのかと思った。 マグワイアは依頼されるとあっという間にサリヴァン父子に追い付く。 その手口は実に鮮やか。 最初に追い付かれた時点では、ここで終わるわけはないからうまく逃げられるに違いない、と思った通り、予想通りの展開だ。 予想通りとはいえ、ハラハラドキドキさせられるのは映画ならでは。 ところが、その次にサリヴァン父子の前に殺し屋が現れるまで随分と間があるような気がする。 最初に追い付いた鮮やかな手口から考えると、のんびりと銀行強盗をしていてもいいのかい、と思わなくもない。 逃避行という感じがぜんぜんしないのだ。 なんて、もたもたしていると、やっと現れる。 …というか待ちぶせしていたという方が正解か…。 殺しの腕から考えると、再度、現れたときに逃げおおせたのは万に一つの確率も考えられないくらいの奇跡に思える。 しかも殺し屋相手に、すぐに追いかけて来られないような傷までおわせている。 もちろんサリヴァンの方も無傷ではすまない。 …が、親切な夫婦に助けられる。これもあまりにも都合よくできてはいないか。 父子は助けられた夫婦の家にしばらく厄介になる。 ここでも、いつ殺し屋が追っかけて来るかわからない。 もし来れば、厄介になっている家に迷惑になる。 …が、サリヴァンは盗んだ書類を調べているのだ。 ここでも逃避行という感じはない。 次に、話をつけようと再びルーニーに会いに行く。 話はつけられず、サリヴァンの復讐の範囲は広がり、さらなる悲劇を生む。 殺し屋が現れても現れなくても、サリヴァンは常に死と隣合わせだ。 しかし、不思議に無事である。そして父子でパーディションに旅立ち、到着する。 殺し屋が現れるのは、パーディションに到着してからだ。 父と子の関係を築くのに、あまりに都合の良い展開だ。 それ以外をとっても、発端はともかく、その後は偶発的なことの積み重ねで成り立っているストーリーでリアリティに欠けると言えなくもない。 無駄な描写や冗長な場面がなく、コンパクトにすっきりまとめられているのは 評価できる。 が、無駄がない故、ロード・ムービーという面は薄れたように思う。 映画のテーマは父子だが、背景は1931年のアメリカ北部で、現在の常識は通用しない世界である。 サリヴァンはなぜマフィアなのか、なぜ危険を犯してまで復讐するのか、その辺りでつまづくと映画を見ていても面白くなくなってしまう。 サリヴァンが復讐という手段をとらずにアイルランドに引っ込めば、生き残った息子を危険にさらすこともなく、自分も死なずにすんだはず。 しかし、復讐という選択をした。 その背景にあるのは、その時代というものだろう。 私は、アメリカの大恐慌時代を知識としてよく知っているわけではないし、当時のマフィアに詳しいわけでもない。 でも、復讐という選択をせざるを得なかったのは、今の常識では理解し得ない事情があったのだろう、と察することはできる。 その辺の事情を深く描きこんでいないのは、映画としては正解だったと思う。 映画の大部分を覆う暗い色調が、当時の厳しさを充分物語っている。 それでもなぜ復讐しなければならなかったのか?とさらに問うことは野暮だろう。 そこに同調できないと、この映画は意味のないものになってしまう。 斬新な手法があるわけではないが、場面の一つ一つがストーリーをつなげるものではなく、見せる工夫がいろいろなされている。 面白いと思ったのが、ガラスを使った場面。 冒頭で、子供マイクが、コナー・ルーニーをガラスのドアを通して目撃する。 母と弟を殺した犯人だ。 既に辺りはうす暗い。 外にいるマイクからコナーを見ることができるが、中にいるコナーからはガラスが 鏡になって外にいるマイクを見ることができない。 マイクが機転をきかしたために、コナーはそのままマイクを見過ごす。 もう一つはラストの場面だ。 パーディションに着き、子供マイクは砂浜で犬とたわむれる。 父サリヴァンはその様子を、家の中から窓ガラスを通して見る。 ガラスの反射でわかりにくいが、実は、サリヴァンの後ろにいるのは 殺し屋マグワイアだ。そして…。 不気味に静まりかえりガランとした家はあまりにも不自然だ。 充分異変は感じとれたはずなのに、マグワイアが家の中にいるかもしれない、と予想できたのに、一瞬、気を抜いたのか、あまりにもあっさりとやられてしまうのは、冷静沈着なサリヴァンとしては不自然だ。 しかし、それ以上に、その演出に目を奪われる。 それまでの暗い色調とはうってかわった明るい場面、しかも家は白が基調、の中での死の場面は鮮烈である。 マグワイアが写真を撮るためにセッティングした舞台装置としても納得のいくものである。 もし、子供マイクが先に家に入って来たら、ああはならなかっただろう…とも考えてしまうが、それを言うのは野暮だろう。 悲しくて無情…目をおおいたくなるような残酷な場面だが、美しい場面でもある。 映像美を追求しているが故、リアリティはなかったりするが…(苦笑)。 その他、音を消したマシンガン乱発のシーン。 バスルームの鏡に映る死体…。 特別、新しい手法でもない。 ちょっと、ひいて見れば、次にどういうシーンが続くのか想像するのも難しくない。 しかし、その場面の一つ一つは充分ひきつけるものがある。 あくまでも絵的であって、リアリティがあるかどうかは別の話だ。 最後だけは予想外だった。 いや、何も予想していなかったというのが正しい。 一人残されたマイクは、道中で世話になった人の良さそうな夫婦を再び訪ねる。 救いようのない殺人シーンの連続だったが、最後、マイクの落ち着き先があってホッとする。 こんな風に書いてくると、結局、父と子の話はどこへ…と思ってしまう。 実際、父と子の会話のシーンが多いわけでもない。 しかし、言葉で語らなくても、充分映像で語られている。 サリヴァンとルーニーの父子にも似た関係、ルーニー父子の関係は、すべて脇役だ。 サリヴァン父子はパーディションへの道中でお互いを理解するようになったが、他の父子関係をすべて破綻させた上に成り立った絆だと思うと虚しさが残る。 さて、視点を変えて、これはワルの話だ。 ワルは現実では勘弁して欲しいが、映画ではついつい感情移入してしまう。 ワルが主役の映画は結構多いものだ。 ポール・ニューマンがロバート・レッドフォードと主演している「明日に向かって撃て」も「スティング」も主役はワルだ。 ワルを主役にするには、舞台を一昔前に戻すに限る。 現代が舞台だったら、悪役を追い詰める刑事が主人公の方がずっと受け入れやすい。 父と子の関係が映画のテーマだとしたら、大恐慌時代のマフィアで描く必然性は必ずしもない。 マフィアでなければこんな血生臭い映画にはならなかったはず…。 かといってマフィア映画に分類されるものにもなっていない。 華やかな時代ではないものの、クラシックな雰囲気を味わえるのは映画の醍醐味だ。 そんな楽しみがプラスされている。 まぁ、結局の所、ストレートに父子のロードムービーを描いても、その内容がどんなに良いものだとしても、なかなか人は集まってくれない。 大物を配し、話題が出そうな肉付けをして、映像は美しく…、そして無駄は省いて…と出来上がったのがこの映画だと思う。 だから、良いものはあるのに、焦点がぼやけてしまっているのだろう。 PR |
1998年の作品。 新譜発売のパンフに載っていたストーリーにひかれ、なんとなく気になりつつも、買ったりレンタルしてまで…と思ってしまったのでなかなか見る機会がなく、結局TV放映で視聴。 TVで見るくらいがちょうどいい小品ですね。 てっきり米映画だと思って見始めたら、舞台はロンドン。 後で調べてわかったことですが、監督も主役の男優二人も主人公の友達役の女優も英国人。 英国人で揃えているのがハリポタ映画みたい…かも(苦笑) 主人公のヘレン(グウィネス・パルトロウ)のちょっとした運命の違いからくる二つのパラレルワールドを平行して見せてくれるラブ・ストーリーです。 それぞれのラブ・ストーリーはなんてことはない、どこにでもころがっているような話ですが、それが平行して描かれるところがこの映画のミソ。 片方は怪我をしてバンソコウを貼っているとか、片方はイメチェンで髪を切るとか、それぞれの世界にいる二人のヘレンが区別つきやすいような配慮しているのはまぁ、当たり前。 面白いと思ったのは、二人のヘレンがニアミスしているところ。 恋人に裏切られ失意で呑んだくれているヘレンと、恋人に失業のことでなぐさめられはしゃぎに出かけたヘレンの行ったバー(?)が同じ…など、前半はそのニアミス具合がカメラワークも含め、なかなか良し。 自分で会社を興して生き生きしていくヘレンと、バイト生活にくたびれていくヘレンが実に対称的なのも見所。 結局、2つのストーリーは最後、1つになるというのは薄々知っていたので、どうまとめていくのか、後半に期待していたのですが、ストーリー展開が強引になり、二人のヘレンがシンクロするのさえわざとらしくなってしまったのはちょっと興ざめ。 ストーリーに無理があるな、と思った第一の理由は、ヘレンの同棲相手だった恋人のジェリー(ジョン・リンチ)があまりにも情けない奴だったこと。 昔の恋人リディア(ジーン・トリプルホーン)と焼けぼっくいに火がついたのか、ヘレンに内緒で二股かけています。 こういうお調子者の奴は、世の中に絶対いそうで、そういう意味ではリアリティがありますが、この映画の中では、上辺だけでもカッコいい奴に描かないと、リディアがヘレンと別れるように迫る理由がわかりません。 リディアがてっきりジェリーとヘレンをいじめて面白がっているのかと思ったら、どうやらジェリーに本気で戻って来て欲しいと考えているらしい…。 リディアのような女性が、こんな情けないジェリーに固執する理由がいまいち不明。 ジェリーは処女作を執筆中の物書きということになっていますが、何か書いている様子がまったくありません。 二股かけていて忙しいので当然とも言えるのですが、書けないことをヘレンがほとんど追求しないのも不思議。 「いつになったら書き終わるの?」とは尋ねますが、それ以上は踏み込みません。 ジェリーはヒモ状態、一方ヘレンはバイトでくたくたな上に、ジェリーの不信感を抱き始めているという場面では、もっと怒りますよね、普通。 さてさて、いち早くジェリーの裏切りを知ってしまったもう一方のヘレンにも納得できないところがあります。 こちらのヘレンには、新たに恋人ジェームズ(ジョン・ハンナ)ができますが、この恋人も何かワケあり…。 見る方も、再びヘレンは裏切られるのかとハラハラ見守ることになります。 ジェームズには離婚手続き中の妻がいるのですが、そのことを切り出せず、ズルズルと日は過ぎ、ある日、ひょんなことからヘレンはその妻の存在を知ってしまいます。 一荒れあるのかと思いきや、「別居中の妻がいるがかくかくしかじか離婚手続き中」との言い訳であっさりと仲直り。 ヘレンとは、友達という立場でつきあい始めたこともあり、ジェームズ側から考えるとなかなか切り出せない気持ちはよくわかりますが、ヘレンの立場に立てば、理屈はわかるもののその一言であっさりと許せるでしょうか。 最終的には許しても「もっと早く言って欲しかった」と少しくらいなじる言葉が出ても不思議ではありません。 その後、車に轢かれてしまうのは、もう一方のヘレンとの辻褄合わせでしかなくて、思いっきり不自然な展開が続くだけです。 二人のヘレンが妊娠→事故→流産という道を辿るのは、やや強引な感じで、クライマックスとしては思いっきりありきたりでつまらない。 最初のアイデアは良かったのだけど、結末につなげるのに良いストーリーが思い付かず強引につないだ、という印象です。 結末…ほんとのほんとのラストシーンは悪くないんですけどね。 その結末につなぐために、二人のヘレンのうち一方を消す必要があったのでしょうか。 消さなければならないのだとしたら、事故、は必然だったかもしれませんが、やや安直な解決方法ではないでしょうか。 もっとコメディタッチにすれば、肩の力を抜いて見られる良い映画になったかもしれません。 いずれにせよ、ストーリーの練りが足りなかったのは、残念。 |
映画館に行きそびれたので、DVD を買った。 吹替えに行くか、字幕に行くか悩んだ作品でもある。 2度観に行く、という手もあるが、時間が必要。 DVDだと両方楽しめるので悩まなくてすむ。 これだけ、ディズニー・キャラをパクッてくれると、それはそれで気持ちいい。 それにはディズニーを知らないとならないのだが、映画を観ていなくても、 ディズニー・キャラの絵本などがあふれているので、知らず知らずのうちに結構知っているものだ。 白雪姫もシンデレラも眠れる森の美女も、絵を思い浮かべると、あのキャラになってしまう。 他にも、ピノキオ、バンビ、ピーターパン…。 ディズニーキャラでなくて思い浮かべろ、と言われると、あの影絵のイメージかも…。 そうです、NHK教育TVのあの影絵…。 さすがに、人魚姫になると、ディズニー・キャラよりも、 アニメ「アンデルセン物語」(←日曜の夜にやっていたアレです)の方になるが…。 プーさんも、石井桃子さん訳で素朴な絵のついた絵本の方。さて、主人公のシュレックだが、設定では「見るも恐ろしい怖い怪物」である。 が、あまり恐ろしさを感じない。どことなく愛敬さえ感じる。 CMや前情報で見慣れてしまったせいか…。 もう少し恐ろしげな感じでキャラ・デザインした方が、ストーリーが生きるような気がした。 おまけに日本語のシュレックは、淡白だ。世の中に無感心という雰囲気は出ているが、 怒っても迫力がない。恐ろしさをいまいち感じない。 やはり、きちんと演技力のある人、吹き替えの実績のある人をキャスティングして欲しかったように思う。 (そうなると流暢な方言という課題があるかもしれないが…)。 オリジナルでは、カナダ生まれのマイク・マイヤースがスコットランドなまりで しゃべっているそうだが(私は英語のなまりなど判別つかないが)、果たして きちんとしたなまりになっているのかどうかはわからない。 ロバは、英語、日本語とも弾丸のようにしゃべりまくるが、いずれもぴったり。 日本語の場合、山ちゃんこと山寺宏一さんだが、それ以外のキャスティングは考えられない。 今や顔もそれなりに売れている声優さんだから、ヒッパリダコだろう。 そして、フィオナ姫。あのキャラ・デザイン、藤原紀香をキャスティングしたくなるのもうなずいてしまう。 日本語吹替えでは歌うわけでもないので、そう違和感はなかった。 しかし、映画の前半、半分近くの時間を経てやっとフィオナ姫が登場するとは知らなかった。 フィオナ姫にはもっと活躍して欲しく、少々物足りない印象だが、 全体で90分程度にまとめているので、あんなものなのだろう。 なんやかや言っても英語で楽しめれば、その方が絶対に面白いと思う。 「マッフィン・マン」の歌が出て来るが、これは、知っていてこその面白さだ。 日本語に置き換えるのはなかなか難しい。 そして、全編にちりばめられたヒット・チューン。 そのヒット・チューンを知っていればさらに楽しい。 (年齢がばれるかも。…知っているといっても、その歌がヒットした時を知っているわけでは、 必ずしも、ない。 DVDでおいしいのはメイキングなどの特典映像。 造り物らしさを残すために、わざと CGの精度を落したというのには驚き。 最近の CGアニメの向上には驚かされる。 もちろんそれだけ手間暇かかっているわけで、CG使ったからといって、製作が 楽になるわけではないと思うが、今後どうなっていくのだろうか。 |
思い立ったら吉日、というか時間があったら速攻で、ということで観てきた。 CM終了直前に映画館に滑り込んだので、席は右はじという、どう考えても音響効果を存分に楽しめそうにない場所だったが、仕方ない…。 並ばず座れただけでラッキーと思っておく。 Episode Iがどうやって肉をつけてストーリーを作るかだったとしたら、 Episode IIはどうやって2時間半の中にストーリーを押し込むかだったと思う。 急接近するアナキンとアミダラ、アナキンの母の死、クローン軍団のこと、ようやく見え始めた反共和国や暗黒面の暗躍。 これだけ盛り込んでも、まだまだわからないことだらけ。 確かに暴走しはじめるアナキンは描けていたが、その動機付けが浅い。 アミダラを想う気持ちに悩んだかと思うと、次の瞬間、母のことを想っている…。 その辺りの気持ちの推移は、もっと丁寧に上手に描く方法はあるのではないかと思うが、ストーリーはどんどん先に進んでしまい、心理描写という点では安直な展開になっている。 そこがほんとに残念。材料は揃っているのだから、うまく料理して見せて欲しい。 冒頭の殺し屋との追いかけっこは映画「ブレードランナー」を連想した。 そういえば「ブレードランナー」の街の撮影に、ミレニアムファルコンのフィギュアが使われているだったっけ…!? その他、旧作を知っている人ならば、ニヤリとできるようなちょっとしたシーンや小道具が満載だったのは面白かった。 どうやって、New Hope (Episode IV)につながるんだろう…と Epispode III が楽しみになる。 ドゥークゥー卿にクリストファー・リーを起用したのは、旧作でピーター・カッシングが出演したことを意識してのことだそうで、やはり、こういうのが嬉しい。 この楽しいというのは、純粋に単作品の映画として楽しみというより、どうやってつながるのか、よくわからないことをきちんと解明して欲しい、という期待の方が大きい。 クローン軍団の発注の件についてまだ不透明なことだらけだ。 Episode III で本格的なクローン戦争が起きるのだろうか。 |
必要な技術が可能になるまで映画化できなかった…という作品でしたっけ? ストーリーは、ダースベイダーが若い頃の話だ。 つまり、初スター・ウォーズ作品「A New Hope」より前の時代の話になるのだが、帝国軍に支配される前の方が文化的には華やかで進歩的だったということで、よりメカニックなアイテムなどがたくさん登場する為だとか。 そんなわけで、技術的には最新のものをフル活用している上に、女王様の衣装もとても豪華で華やかだ。 (レイア姫はオオクニヌシノミコトもどきでしたからねぇ…。) 殺陣の動きや剣さばきは、今回、専門のイントラクターが指導したようで、ぐっと鮮やかになった。 見かけは派手なのだが、さばくのだけで精いっぱいだったのだろうか、演じる人の気迫みたいなものが感じられない。 緊迫感はあるのだが血が通っていないとでも言うのだろうか…。 「ジェダイの復讐」でのルークとダース・ベイダーの戦いは、剣さばきこそぎごちなかったかもしれないが、思わず息をのんでしまうような気迫があった…。 見た目の派手さに対してストーリーが、今一つ負けている。 面白いことは面白いのだが、例えば、この Episode I で最大級の敵であるダース・モールとクワイ・ガン・ジンは戦って二人ともあっけない最期をとげる。 二人とも戦いを盛り上がるために、とってつけられたキャラでしかなかったように思う。 クワイ・ガン・ジンはともかくとして、ダース・モールに関してはさんざん強敵であるように煽っておいてあの最期だ。 何か物足りないものを感じる。 ジェダイは師弟二人で行動する、というのも、今回とってつけられたような話だ。 実際そうなんだと思うが…。 (Episode IIでは師弟の二人が別れて任務に着くよう命令されるというのもおかしな話だ。) さらには、クワイ・ガン・ジンというキャラを創ってしまったがために、若き日のオビ・ワンがアレックス・ギネス演じる老人ベン・ケノビにつながらないように感じる。 CGを駆使した新しいモンスターキャラにしても、うるさいだけ、との見方もある。 手間はかかるのだろうが、CGを駆使してモンスターキャラが動くのは今となっては当たり前で、それだけでは目を奪われない。 しかし、それなりに冒険活劇として楽しめてしまうのは良い。 ストーリーも表面的には入り組んでいるが、ストーリーを理解しなくとも活劇としては成り立っている。 (ストーリーが入り組んでいるのは旧三部作でもそうだった。) 実は、ストーリーの全容が見えてきたのは、エピソードIIの公開に合わせて、TV放映されたのを改めて見てからだ(苦笑)。 思うに、Episode I での最大のポイントは後のダース・ベイダーになるアナキンが見出されること。 元々想定されているストーリーの要はそれだけあれば充分、かつ、それしかなかったように思う。 物語の中でいきなり10年流して、成長したアナキンまで含めて描く、ということも不可能ではない。 が、キャスティングは大変だし、既作3作品(旧三部作)でも1つの映画の中で時間をいっきに進めるようなことはしていない。 というわけで、肉をつけたして、ストーリーを作ったのではないだろうか(思いっきり勝手な邪推)。 ストーリーをしっかりとして技術に負けないだけのドラマ性を備えて欲しいものだ。 早く続きを見せてね、というのが正直な感想だ。 |
映画館に行きそびれたので、DVD で観た。 小粒で地味だけど世間的には比較的評価の高い映画、というところであろう。 深く考えなければ、なかなかの秀作と言えると思うのだが、いろいろ細かい突っ込みをしたくなる部分が多々ある。 映画として(原作があるそうなので、原作としてもそうだと思うが)一番描きたいことは、非日常におかれた主人公の心情なんだと思う。 そしてその非日常というのは、何をやっても「ターン」して元に戻ってしまう、ということ。 だから、その非日常が生まれる原因としての交通事故とか植物状態というのはあまり意味をなさないのだろうと思うが、パラレルワールドとして描かれる一方の現実の世界があまり現実的でないのが少々気にかかる。 植物人間を扱った映画やら小説やらはいくつか知っている。 それだけに、現実の世界での、植物状態に陥った主人公の状態が美しすぎるのが、非現実的に思えてならない。 美しく意識を取り戻すには仕方のないことなのだろうけど…。 しかし、これは野暮な突っ込みかもしれない。 では、非日常の世界の方はどうか。 こちらもやや御都合主義で描かれてはいないだろうか。 テレビや電話は絶たれているが、電気やガス、水道といったライフラインは生きているようだ。 銀行のネットワークも動いている。信号も機能している。 その機能するものと機能しないものの境目が、謎。 また、同じ日常を繰り返しているはずなのに、突如として、現実世界の進行とつながっている部分が出て来る。 これは、非日常におかれた主人公の心境の変化(あるいは、現実世界で主人公が回復しかけている)のなせる技と解釈できるのかもしれないが、矛盾を感じる点である。 いろいろ言い訳はできるのかもしれないが、SF だのミステリーと言える程、整合性に納得できる説明はなさそうに思える。 そのような様々な矛盾を考えなければ、それなりに楽しめるストーリーだと思う。 映像的には、無人の街が凄いと思う。 一昔前ならば、東京〜新宿、なんていうロケを選ばず、撮影にあたって本当に人払いが出来るような地方都市を選んで、撮影したのだと思う。 が、CGを駆使して、合成として無人の街の映像を作り上げている。 普段の東京〜新宿辺りを見慣れている目には、その映像だけでもとても新鮮に映る。 無人の街にいるという主人公の感覚を共有できそうな、映像マジックだ。 雪などもCG合成で作り出しているようで、演技する方は無いものを見て、あるいは、あるものを無いものとして演技しなくてはならないので、大変なのだろう。 地味めの映画なのだが、意外にCGを駆使しているのはびっくりした。 今となっては当たり前の技術なのだろう。 そして、BGMがほとんどないのがまた良いところかもしれない。 それだけに、ときおり流れるピアノのインストゥルメンタルのメロディが染みる。 そして、終盤では、ピアノソロでなくアンサンブルになっているのが、 なかなか憎い演出である。 |
1938年の白黒の英作品。 「風と共に去リぬ」の前年に作られた小品で、ヴィヴィアン・リー、チャールズ・ロートン、レックス・ハリソンが出演しています。 「風と共に去リぬ」は現在公開される大作映画と比べてもヒケをとらない一大絵巻ですが、 この映画は、今だったら、おそらく映画という媒体では作られないであろう小品です。 テレビ時代の前の作品ですからね。 そう思って見ないと、何だこれ、ということになるかもしれません。 日本では劇場公開はされなかったようですが、テレビで放映されることがあります。 舞台はロンドン。 38才のチャールズ(チャールズ・ロートン)は大道芸で生計をたてている。 大道芸人の活躍の場は「外の世界」。 一方「内の世界」では、花形スターがショーを繰り広げている。 そんな「内の世界」に憧れる小娘リビー(ヴィヴィアン・リー)が、ある時、チャールズが稼いだ小銭を盗る。 身寄りのないリビーには、皿洗いくらいしか仕事がないのだが、手が荒れるのを嫌い、 そんなことで日銭を稼いでいたのだ。 『皿洗いはしたくない』『しょうがないから盗む』とリビーは自分を正当化するという凄い倫理観です。 少なくとも現代の常識的な物差では通用しません。…が、時は第二次大戦前。 ロンドンの階級社会は冷たく厳しいものだったと想像できます。 自動車が増えるにつれ、大道芸や道ばたの花売りは、稼ぎの場が失われつつあった時代…。 ちょっとはリビーに同情してもいいような気もします…。 でも、とんだアバズレです。 チャールズは怒ってリビーを追い詰めるのだが、リビーの才能に惚れ込み、 結局、彼女を含めた大道芸仲間と一座を組み、新しいスタイルの出し物を始める。 リビーのトンデモな倫理観に比べ、チャールズはとても常識的。 …そして、大道芸にプライドを持っています。 大道芸の仲間達はお互い譲り合って芸を披露していて、違う芸を披露していても仲間意識には厚いようです。 チャールズは最初はリビーに対してカンカンに怒っていたのですが、まず彼女の才能に惚れ込んでしまい、 結局彼女の庇護者となります。 自分の部屋に連れていって一夜の宿を提供する、というのはチャールズの人の良さを表していますが、 ついて行くリビーには迷いとか抵抗はなかったのでしょうか。 とんだアバズレに見えたリビーにも、気立ての良い面があります。 チャールズの誕生日に密かにケーキを用意する場面など、ホッとします。 ひょんなことから、彼等と出会った音楽家のプレンティス(レックス・ハリソン)も、リビーの才能に惚れ込む。 プレンティスの口利きで、リビーは「内の世界」へ踏み込んでいくきっかけをつかむ。 もちろんチャールズは反対だ。 リビーに『結婚してくれ』とまで言うが、彼女は去って行く。 チャールズは大道芸にプライドをもち、それで一生やっていこうと思っていますが、 リビーは常にステップアップのチャンスを狙っています。 チャンスがあればリビーが去って行くのは当たり前。 きっぱりと去っていたリビーを誉めてあげたいですね。 一方のチャールズは可哀想な気もしますけれど、惚れ込んだのはリビーの才能だけではなく、 リビー自身にも惚れてしまったというちょっとした下心ありの為せるワザ。 飼い犬に手を噛まれたという思いもあるでしょうが、チャンスさえあればリビーはステップアップの ために去って行くというのに気付かない、認めない、というのは40近い男としてちょっと情けない…。 リビーは成功の階段を昇り、主演の座をつかむ。 プレンティスとは良い感じだが、彼は『チャールズの二の舞いにはなりたくない』とリビーに言う。 チャールズのことを思い出したリビーは彼を訪ねるが、彼はいない。 リビーに去られたチャールズは意気消沈し、その挙げ句、いざこざを起こし、ムショ暮らしをしていたのだ。 リビーの才能に惚れ込んでいるのか、リビーに惚れ込んでいるのかはよくわかりませんが、 感情におぼれないプレンティスはクールです。 さて、 成功の階段をほぼ昇りつめたリビーが、突然、チャールズを訪ねるという心境はやや不可思議です。 でも、ここでリビーとチャールズが再会しなければ話は完結しないので、お話として必要なプロセス。 リビーはチャールズを成功への踏み台にしたつもりはなかったのでしょうが、 結果的にそうなってしまったことをここで初めて知るわけです。 リビーをただのアバズレには描きたく無かったということなのでしょうね。 4ヵ月の刑期を終え出所したチャールズはすっかり落ちぶれ、盲人のふりをして小銭を恵んでもらっていた。 リビーはそんな彼に遭遇し、びっくりする。 リビーの薦めにより劇団の端役をもらうため、チャールズはオーディションを受ける。 ところが、そのオーディションを受けている最中にチャールズは気付く。 自分の生きる道は大道芸だと…。 そして彼は再び大道芸に戻って行く。 最後は、プライドまで失って落ちぶれたチャールズが立ち直って再び活力を見い出すまでで、 結局、リビーは「内の世界」、チャールズは「外の世界」と住みわける結果になります。 お互い、納得のうえそれぞれの世界に戻っていき、一応 Happy End みたいになっていますが、 現実問題として、チャールズの戻る世界の未来は明るくはないのです。 映画の途中でも語られていますが、自動車が道を走るようになったために、 道ばたの花売りは商売が成り立たなくなります。 警察の取り締まりも厳しくなってきて、道路を不当に占拠してしまう大道芸は大っぴらにはできなくなっていきます。 そんな世界に敢えて戻って行くチャールズ…。 救いは、彼が再び自分の信念とプライドを取り戻したということでしょうか。 |
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