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内容が思いっきり根拠のない作り話の上に、「アマデウス」の二番煎じを狙ったような感じで、公開当時観る気がしなかったものだ。 「アマデウス」の二番煎じというのは当たらずといえども遠からず。 この映画は評価が二分するようである。 ベートーヴェンに扮するゲーリー・オールドマン(映画「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」ではそのアズカバンの囚人役シリウス・ブラックで出演)のファンか否かで分かれる(笑)ようである。 ファンか否かという言い方はあまりかもしれない。 ゲーリー・オールドマンがベートーヴェンに見えるか見えないかで分かれる、 と言った方がいいかもしれない。 私は、残念ながらベートーヴェンには見えなかった。 とはいえ、ピアノに耳を当てて「月光」を弾くシーンなどよく仕上がっていると思う。 そう、映画全体がベートーヴェンの音楽のイメージ映像と思えば、極上の出来なのである。 映画を彩るベートーヴェンの音楽はやっぱり素晴らしい。 その音楽がふっと止まり、ベートーヴェンの耳の聞こえない音の無い世界に入る…。 言い方を替えれば、気持ちよく音楽を聴いていたところで、それがいきなり切られてしまう… そんな聴かされ方に不満を持つ人もいるようだ。 だが、これはやはり映画。 音楽を聴くならばコンサートやCDで鑑賞するのが正解だろう。 これまでベートーヴェンの伝記を読んでも、音が聞こえない世界というのをあまり想像することがなかった。 頭の中で鳴っている音楽、でも耳からは聞こえない音…。 この映画ではそのの状況を見事に表現している。 そして、そこから察せられるベートーヴェンの悲しみ…あまりに、辛すぎる。 悲しいが故、映像は美しい…。 ここで思いっきりベートーヴェンに感情移入してしまうのだが、 映画では耳の不自由さをかなり誇張している。 ベートーヴェンの耳は徐々に遠くなったのであって、ソナタ「月光」の頃は遠くの音が聞こえないだけだった。 ピアノに耳をつけて振動で音を聴かなければならなくなるのは、晩年の頃だったはず。 (耳をピアノにつけたのではなく、歯から伝わる振動で音を聴いた、と記憶しているが…) 音楽家なのに耳がどんどん遠くなっていく…、それでも彼は音楽家であり続けた。 その不屈の精神を描いていないのは残念だ。 話の内容がフィクションで演出だらけで、 少ない資料から明らかになっている史実とかけはなれていることは、目をつぶろう。 …が、それだけフィクションをちりばめ、 音楽とマッチングした演出をしているのにもかかわらずストーリーとして説得力がないのだ。 ミステリー仕立てにしてので、不滅の恋人の正体を、 思いっきりあり得そうにない人物(つまりある程度史実を知っている人にも予測のつかない人物)としたのだと思う。 ベートーヴェンの不滅の恋人に関しては、様々な研究があり、知られていることなので、 当たり前の人物を選んだのでは、ミステリーとして成り立たなくなる。 それはいい。 でもそれならば、その根拠となる作り話をもう少し肉付けしてもらわないと説得力に欠ける。 ベートーヴェンが、弟の死後、甥のカールの後見に執着したことは事実だ。 この映画では、それは実は甥ではなく実の子だったからそれだけ執着したのだ、という作り話で、不滅の恋人の正体を裏付けようとしているが、それだけでは、ちょっと苦しいのではないだろうか。 ベートーヴェンを描くのに、根拠のない作り話をでっちあげてしまって、しかもそれが説得力に欠けるものであれば、興ざめしてしまう。 「アマデウス」にも根拠のない作り話が多分にちりばめられているが、あくまでも主題は、天才をうらやむ努力家の苦悩。 それを描くために、サリエリとモーツァルトを取り上げたのに過ぎないので、極端な話、サリエリとモーツァルト以外に置き換えても映画の主題は描くことができる。 それくらいしっかりしたストーリーを持っている。 それに対し、「不滅の恋 ベートーヴェン」では最初っからベートーヴェンを描いてしまっているところで大きく違っている。 ベートーヴェンをとったら何も残らないのだ。 ベートーヴェンをとったら何も残らないのに、そのベートーヴェンを正しく描いていない。 あくまでもイメージ先行。 イメージの切り貼りで、ベートーヴェンという人物が魅力的に立体的に映っていないのだ。
originally written:04-May-2004, 06-May-2004
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