今日はモーツァルトの生誕250周年。
私としたことが、まだこの映画を取り上げていなかったとは!
凄い、面白い、素晴らしい…。
もし観ていない人がいらっしゃるならば、とにかく一度は観ることを強くオススメする。
今更解説するまでもないことだが、サリエリの告白によりモーツァルトの後半生を描いている。
モーツァルトはその名前と音楽を知らない人がいないであろう有名な音楽家。
クラシックは聴かない…という人でもどこかでモーツァルトの音楽を耳にしているはずだ。
…が、サリエリとなると、クラシックファンでない限り、その名前を知らなかったり、せいぜいモーツァルトと同時代の音楽家である、という程度しか知らないのではないだろうか。
サリエリ作の音楽…私もほとんど聴いたことがない。
けれども当時はむしろ逆だったようだ。
サリエリは宮廷音楽家として皇帝に仕え、不自由なく暮らしていた。
一方、モーツァルトは、天才児としての名声は得たが、晩年は悲惨だったというのは有名な話。
晩年、経済的に困窮していたことも関係して、モーツァルトの死については謎が多く、今となっては真相は闇の中だ。
映画「アマデウス」では、サリエリが殺意を抱き、最終的には過労に拍車をかけ死に至らしめたようなストーリーになっている。
サリエリのモーツァルト毒殺説というのは、モーツァルトの死後、サリエリの存命中に既にウィーンで噂になったことだそうだ。
耄碌したサリエリがそのように口走ったという噂もあるのですが、この説については、サリエリ自身も否定したそうだし、噂に過ぎず、あり得ることではない、というのが現在の通説。
…というわけで、映画「アマデウス」は、フィクションだらけのストーリーで、史実とは大きく違うということを一応認識していた方がいい。
昔の話だし、あまりにもドラマチックな展開だから、これがすべて本当のことだと思う方が勘違いも甚だしいと言えるが…念のため
。
サリエリ(1750-1825)は当時としてはかなり長寿で、晩年は、老衰のため、ウィーンの病院で過ごしたようだ。(映画のように、自殺未遂で運ばれたというわけではない。)
映画は、サリエリの告白、というスタイルをとっているから、サリエリが本当のことだけをしゃべったとは言い切れないわけで、半分モウロクであることないことを話したストーリーと解釈できる。
この映画のうまいところは、フィクションでありながら、史実をうまく織り混ぜている所。
その微妙なさじ加減で、フィクションでありながら、リアリティを感じさせる。
そして、モーツァルトとサリエリを描きながらも、ドラマは、天才と不幸にして天才を理解する能力だけ備わってしまった凡庸人を描いていく。
映画の下敷となったドラマ(戯曲)がそのようなテーマを持ったものだったようだ。
サリエリの気持が手に取るように描かれているのが、この映画の魅力となっている。
モーツァルトを憎みつつも、その音楽を誰よりも愛していたのがサリエリ。
疲労困憊して倒れたモーツァルトに、中途になったままのレイクエムの作曲を続けるよう手伝うのも、自分の愛するモーツァルトの音楽を誰よりも早く知りたい、という、純粋な音楽への愛情故。
憎しみが激しく殺意を抱くほどであったとしても、結局は、モーツァルトが美しい音楽を創造し続けて行く限り、サリエリにはモーツァルトを殺せるわけがない。
そんなサリエリの心情が丁寧に描かれている。
この映画で、サリエリという人物が誤解される、と危惧しているクラシックファンの方もいらっしゃるようだが、実際に映画を見たら、そんなことはないのではないかと思う。
(映画の筋だけ聞いて誤解する人はいるかもしれないが。)
実際、サリエリは指揮者としてモーツァルトの音楽を演奏する機会があったようだ。
(好んで選んだのか、職位上、必要だったのかはわからない…)
天才は、実生活面でも、紳士あるいは聖人だったかのように思われがちで、この映画によって、モーツァルトの下品な面を見せたことに対する批判もあるようだ。
公衆の面前で横柄で下品な態度をとったかどうかは定かではないが、身内に対する書簡には下品な言葉使いをしたものが残っているのは有名な事実。
歴史上、偉業を成し遂げた人物を、美談ばかりで飾る時代でもないし、サリエリの嫉妬が際だつという意味で面白かったと思う。
映画のサリエリが愛するモーツァルトの音楽が、実に効果的に使われているのもこの映画の大きな魅力だ。
このサントラとしての使い方はウマイ、見事としかいいようがない。
エンディングロールのバックに流れる音楽までが映画の一部として溶けこんでいる。
残念ながら、この作品を映画館で観たことがないのだが、エンディングロールになってもなかなか席を立てないのではないだろうか。
テレビやDVD(LD)で観ても、最後の最後までモーツァルトの音楽を聴いて余韻に浸りたい、と思わせる。