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結局、見てしまった。加担してしまった(苦笑)。
我が家のテレビでフジテレビにチャンネルを合わせていたとしても、視聴率の数字には関係ないと思うが…。
しかし、視聴率を出す為のサンプル数というのはそれほど多くなくて統計学的見地からいうと母集団の傾向を類推するには不十分だったはず。
そんなことはどうでもいいとして…。


やはり、自分の芸風をしっかり持っているのがマチャアキだなぁ…と思った。
他の役者が台本どおり、演出家の指示通り動いているようしか見えないのに、マチャアキだけはしっかりと自分の持ち味を出している。
画面に登場したシーン、明らかに空気が違ったように思う。
それが“あの”西遊記ドラマの良さでもあったわけだ。


それにしても、いくらオリジナルな味付けとはいえ、天竺大雷音寺をあそこまで失墜させることはなかろう…しかも、引っ張り過ぎ、オズの魔法使いじゃないんだから…とだらけて見ていたところで、目が覚めた。
やりましたね!
Monkey Magic 使いましたね!
お釈迦様役にマチャアキを配して最後まとめる、という展開はなかなか。
なんだか軽すぎるような気もするが、ワッカを外して「痛いんだよね、これ」…やられました。
もう許しちゃう(笑)。


まぁ最後のエスプリは効いていたけど、とはいってもなんだかなんだか…ね。
マチャアキを出演させる為にストーリーひねりました、な感じの終盤の展開。
90分枠での放映だったが、60分枠でもおさまりそうな内容。
たった1クールのドラマなのだからあんなに回想シーンを盛り込むことはなかろう。
日テレ版への“リスペクト”は感じられるが、それ以上の何かが足りない。
結局テーマが“なかま”に終始しているところに、難があったような気がしてならない。
それをすんなり受け止められない私がひねくれているのかもしれないが。

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やっと観られた〜 …ってポール・ニューマンが出ているから観たかっただけなのだが…。
そのポール・ニューマンはすっかりおじいちゃんだった。
この後に出演した映画の方が若々しい…少なくともエネルギッシュな感じがするのだが、それも役づくりとしてなのだろうか。
しかし、子の理解者父役でのニューマンの演技は光っている。


一方、メインのラブ・ストーリーは…というと、似たような話どこかでなかったか?
モンタナの風に抱かれて」と似てるといえば似ている。
ギャレットはなぜテリーサに心を開いたか…そこに至る過程が物足りない。
だって、ギャレットはガチガチに前妻を想いそこから逃れられなかったヤツだ。
ここで心を開いてもらわないとストーリーが先に進まないのはわかるが、なんだかご都合主義。
ギャレットが短期間で心を開くほどのイイ女にテリーサが見えないのがなんだか…。
その辺、原作で読めば入っていけるのかもしれない、と考えてしまう。
最近、そんな映画が多いなぁ…。
理屈ではなくて楽しみましょ、というタイプの映画でもないだろう、これは。


後味が良いとはいえないエンディングにはいろいろ意見があるようだが、ハッピー・エンドでなくて良かった。
仮にハッピー・エンドで映画が終ったとしても、どう考えてもあの二人うまくいくわけないでしょう。
ギャレットの好む生活環境と、テリーサのライフ・スタイルはあまりにも違いすぎる。
だから余計にギャレットがテリーサに惹かれたのがわからないのだが…。


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今日はモーツァルトの生誕250周年。
私としたことが、まだこの映画を取り上げていなかったとは!



凄い、面白い、素晴らしい…。
もし観ていない人がいらっしゃるならば、とにかく一度は観ることを強くオススメする。


今更解説するまでもないことだが、サリエリの告白によりモーツァルトの後半生を描いている。
モーツァルトはその名前と音楽を知らない人がいないであろう有名な音楽家。
クラシックは聴かない…という人でもどこかでモーツァルトの音楽を耳にしているはずだ。
…が、サリエリとなると、クラシックファンでない限り、その名前を知らなかったり、せいぜいモーツァルトと同時代の音楽家である、という程度しか知らないのではないだろうか。
サリエリ作の音楽…私もほとんど聴いたことがない。
けれども当時はむしろ逆だったようだ。
サリエリは宮廷音楽家として皇帝に仕え、不自由なく暮らしていた。
一方、モーツァルトは、天才児としての名声は得たが、晩年は悲惨だったというのは有名な話。


晩年、経済的に困窮していたことも関係して、モーツァルトの死については謎が多く、今となっては真相は闇の中だ。

映画「アマデウス」では、サリエリが殺意を抱き、最終的には過労に拍車をかけ死に至らしめたようなストーリーになっている。
サリエリのモーツァルト毒殺説というのは、モーツァルトの死後、サリエリの存命中に既にウィーンで噂になったことだそうだ。
耄碌したサリエリがそのように口走ったという噂もあるのですが、この説については、サリエリ自身も否定したそうだし、噂に過ぎず、あり得ることではない、というのが現在の通説。
…というわけで、映画「アマデウス」は、フィクションだらけのストーリーで、史実とは大きく違うということを一応認識していた方がいい。
昔の話だし、あまりにもドラマチックな展開だから、これがすべて本当のことだと思う方が勘違いも甚だしいと言えるが…念のため


サリエリ(1750-1825)は当時としてはかなり長寿で、晩年は、老衰のため、ウィーンの病院で過ごしたようだ。(映画のように、自殺未遂で運ばれたというわけではない。)
映画は、サリエリの告白、というスタイルをとっているから、サリエリが本当のことだけをしゃべったとは言い切れないわけで、半分モウロクであることないことを話したストーリーと解釈できる。
この映画のうまいところは、フィクションでありながら、史実をうまく織り混ぜている所。
その微妙なさじ加減で、フィクションでありながら、リアリティを感じさせる。
そして、モーツァルトとサリエリを描きながらも、ドラマは、天才と不幸にして天才を理解する能力だけ備わってしまった凡庸人を描いていく。
映画の下敷となったドラマ(戯曲)がそのようなテーマを持ったものだったようだ。
サリエリの気持が手に取るように描かれているのが、この映画の魅力となっている。
モーツァルトを憎みつつも、その音楽を誰よりも愛していたのがサリエリ。
疲労困憊して倒れたモーツァルトに、中途になったままのレイクエムの作曲を続けるよう手伝うのも、自分の愛するモーツァルトの音楽を誰よりも早く知りたい、という、純粋な音楽への愛情故。
憎しみが激しく殺意を抱くほどであったとしても、結局は、モーツァルトが美しい音楽を創造し続けて行く限り、サリエリにはモーツァルトを殺せるわけがない。
そんなサリエリの心情が丁寧に描かれている。

この映画で、サリエリという人物が誤解される、と危惧しているクラシックファンの方もいらっしゃるようだが、実際に映画を見たら、そんなことはないのではないかと思う。
(映画の筋だけ聞いて誤解する人はいるかもしれないが。)


実際、サリエリは指揮者としてモーツァルトの音楽を演奏する機会があったようだ。
(好んで選んだのか、職位上、必要だったのかはわからない…)


天才は、実生活面でも、紳士あるいは聖人だったかのように思われがちで、この映画によって、モーツァルトの下品な面を見せたことに対する批判もあるようだ。
公衆の面前で横柄で下品な態度をとったかどうかは定かではないが、身内に対する書簡には下品な言葉使いをしたものが残っているのは有名な事実。
歴史上、偉業を成し遂げた人物を、美談ばかりで飾る時代でもないし、サリエリの嫉妬が際だつという意味で面白かったと思う。


映画のサリエリが愛するモーツァルトの音楽が、実に効果的に使われているのもこの映画の大きな魅力だ。
このサントラとしての使い方はウマイ、見事としかいいようがない。
エンディングロールのバックに流れる音楽までが映画の一部として溶けこんでいる。

残念ながら、この作品を映画館で観たことがないのだが、エンディングロールになってもなかなか席を立てないのではないだろうか。
テレビやDVD(LD)で観ても、最後の最後までモーツァルトの音楽を聴いて余韻に浸りたい、と思わせる。

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フジテレビ版「西遊記」をちょっと観てしまった。
何かのバラエティ番組の中のドラマかコントかと思ってしまった(苦笑)。
ロケ・シーンはいいとしてもセットがチャチすぎ。
ビデオ撮りでなくフィルム撮りすればあれでも少しは見られるようになるのでしょーか(爆)。


で、結局お手本は、堺正章版西遊記なわけね…。
というか、それで育った世代が作っているからしょうがないといえばしょうがないのかもしれない。
しかし、いったいスタッフのうち何人が、西遊記の訳本をきちんと読んだのだろうか?




現存する最古のテキストに拠ったという翻訳版が福音館書店版の「西遊記」。
まるで辞書のようなヴォリュームの上下巻だった。
他の訳書では端折られてしまうエピソードも網羅されている。
(現在では文庫版が出ている。)
これを図書室から何度も何度も借りて何度も何度も読んだ。
これを愛読してきた者の目から見れば、堺正章版西遊記というのはかなり個性的な(キャストの持ち味を生かした)味付けと感じた。
あれはあれで西遊記の一つの形だと…。
しかしそれがいつの間にかスタンダードになってしまったとはねぇ…。


ちなみに西遊記は元となるテキストが複数あるので、どれをもって完訳とするかは難しい。
完訳版とされているものは、平凡社版(太田辰夫・鳥居久靖訳)と岩波文庫版(小野忍・中野美代子訳)があるようだ。

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「風と共に去りぬ」以前のヴィヴィアン・リー出演作。
この頃の彼女の出演作は他に「茶碗の中の嵐」
「セント・マーティンの小径」があるが、どれも可愛い小娘という感じの役柄だった。
この「間諜」は文字通りスパイの映画で、ヴィヴィアン・リーはスパイの役だ。
表向きは洋装店を営むマダム。
可愛いというより、聡明で賢い美女といった役柄。
それがぴったりはまっている。


そんなスパイが恋に落ちる。
(とはいってもベタベタに甘いラヴ・ストーリーにはなっていない。)
恋する女性になった時のヴィヴィアン・リーの表情がまたいい。
スパイでもなく店の女主人でもなく、非常に柔らかい良い表情をする。
「哀愁」でヴィヴィアン・リーの表情が良かったが、それと同じ、白黒のシンプルな映画が彼女の表情の良さをひきたてる。


スパイ映画だけあってストーリーはスリリング。
昔の映画は冗長な部分が無かったのだなぁと思わせるシンプルさ。
しかし、歯切れの悪い結末はなんだか…。

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長らく映画の感想を書いていなかった。
積み上がっていたDVDの中からこれを選んだのは、吹き替え音声があったから。
(字幕を一所懸命読む気力はなかった。)
以前にも観ているのだが、オードリー・ヘップバーンでパリが舞台の映画なんてどれがどれだかこんがらがって…。
そういう意味では理屈で観てはいけない、雰囲気を楽しむ映画なのだろう。


映画というより全体が音楽クリップのようなミュージカル映画。
でも、オードリーはやっぱり歌がイマイチ。
それが可愛いといえば可愛いのかもしれない。
これはおそらく人気絶頂期に作られた映画だろうし…。
ミュージカル(歌と踊り)の部分は、カメラマンに扮するフレッド・アステアとファッション誌の女編集長役のケイ・トムスンがしっかりと脇をしめる。
オードリーの踊りはバレエになってしまっていて、でもそれをアステアがうまくリードしている。


1960年代チックのような気がしたのだが、1957年の映画だった。
序盤のピンクがこれから時代をリードするというシーンでは、「紳士は金髪がお好き」のマリリン・モンローを思い出した。
マドンナが「マテリアル・ガール」のクリップでパクったあのシーンだ。
ここからしてストーリーはあってないようなもの。
その後の展開も、ジバンシーのモデル、オードリーを存分にどうぞ、という流れだ。
(DVDでわざわざ持っているような映画ではないかも〜(苦笑)。)

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インタビューのドキュメンタリー映画。
インタビュアーでありこの映画の監督であるロザンナ・アークェットの女優としての面は残念ながら知らないのだが、インタビューに応じている女優達はそうそうたるメンバー。
中には知らない(残念ながら作品を見ていない)女優さんもいるが、どこかで見たことのあるような人ばかり。


ハリウッドでは40歳代女優が活躍できる映画が製作されない、という疑問不満から始まったこのインタビュー。
役柄が無い以外にも、仕事と家庭(子育て)の両立に悩む世代でもある。
悩みつつ細々と女優業を続ける人もいる一方で、デブラ・ウィンガーのようにきっぱりと一線を退いてしまった人もいる。
ここで取り上げられるのは「女優」という職業をもった女性たちだが、ハリウッド女優特有の問題だけとも言い切れない、と感じた。


しかし、映画として映画館で観るような内容のものとは違うような気がする…。

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