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このミュージカルを観るのは何回目だろう? 大道具、小道具、衣装も大きな変更はなし。 演じる役者さんが変わった役に関しては当然味付けが変わってくるのだが…。

毎回変わるジキルの親友ジョン役。 今回は石川禅さん。 パンフにもあったが、禅さんらしいジョン像で演じられていた。 無理をせず、とも言えるが、持ち味を生かした感じで良かった。

エマは今回は鈴木蘭々さん。 エマは難しい役だと思う。 歌、演技共にまだまだ研鑽の余地はあるが、まぁ頑張っていた。 もっと良くなる可能性を秘めていると思う。

大好きでCDまで買っているので、初めて観たときのような吃驚はない。 この場面の次はこういう場面、というのがすぐに頭に浮かぶ。 ここは笑わせる台詞。 ここは初めて観る人が吃驚する演出。 みんなその通り進行していく。 これでは飽きてしまうかも…と思わなくもないのだが、やはり“生”のパワーなのだろうか。 最後には涙が出るほど感動してしまった。

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随分前に早期予約したお芝居(ミュージカル)のチケットが届いたんですけど…、キャー〜、センターブロック前から2列目じゃないの〜。
嬉し過ぎます。


ごく普通に楽しむのだったら、もっと後ろの方が舞台の全景が見渡せていいのですが、これはもう既に何回か観ていますからね、一度前の方で観たかったのですよ。
何回か、といっても今度は再々演。
たぶんまた何度か観に行くからいいんです。
一回くらいは、“超”前でね。
しかし、前過ぎて舞台の上が見えないという噂も…。え?


しかし複数回行くには先立つものが…。やりくりどうしよ…。

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映画でも観たが、どうせなら舞台で観たいと思っていた。
まず思ったことは、英語がそのままききとれればどんなに良かったことか!
字幕というか、日本語訳が出るのだが、映画のスクリーンでみるみたいに調子良くない。
映画でも一度観ているし、あまり気にせず、舞台の方に集中するようにしたが、英語がそのまま普通にわかればもっと楽しかったと思う。
わりと後ろの方の席で少々がっかりしたのだが、前の方だったらそれこそ訳なんて見ていられなかっただろう...
後ろの方で正解。


ミュージカルというよりショーを観ているようで面白かった。
しかも、なんでここまで露出度の高い衣装...まぁ、それはどうでもいいとして...
衣装も含めすべてモノトーンで統一されて、バンドまでが舞台の一部である。
そして、時には“役”もこなす指揮者...
この一体感が観ていて楽しかった。


弁護士ビリーがロキシーを腹話術の人形のように繰る場面は映画でも面白い場面だったが、舞台でもそのまま楽しめた。
脇のはしごを使った場面は凄い。
落ちやしないかと見ていてヒヤヒヤするくらいの場所で歌ってポーズをとって…しかもそれが滑らかで自然。
吃驚。


スカっと楽しい舞台ならではのエンターテイメントだった。

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必死(?)の思いでとったチケットでデモクラシーを観に行った。
なんやかやあっちのルート、こっちのルートでもチケットを取って、今日の鑑賞は3回目になる。
3回目でやっと、内容を把握できたように思う。


ストレートプレイで、登場するのはスーツ姿の10人の男。
しかもほとんどがグレー系のスーツ。
役者の表情が判別できないくらいステージから遠い席だとなかなか辛いものがある。
オペラグラスがあるとまた違うのかもしれないが、オペラグラスなしで済むならその方が良いに決まっている。


しかし、事前に予習しないとわからないかというとそうではなくて、必要な情報はすべてお芝居の中に盛り込まれている。
私が3回目でやっと把握できたというのは、1,2回目は寝不足だったり良いコンディションとは言えない状態で観劇したせいだろう。
そういう意味では、お気楽に楽しめるものではないのかもしれない。
が、役者の演技や、シンプルなセット、無駄のない脚本...感嘆する要素はたくさんあった。

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鹿賀丈史と市村正親26年ぶり舞台共演だなんてすっかり見落としていた。 この二人の共演はぜひ観てみたい。 このことを知ったのは、ホリプロからのダイレクト・メール(手紙)。 ミュージカル「ジキルとハイド」を観た時にアンケートを書いたかもしれない。 それで届いたのだろう。

「You Are The Top」の時もすっかり話題に乗り遅れていて、気付いたときにはチケットがほとんど取れない状況だった。 鹿賀さんが降板で、あきらめがついた。

さて、今度は何としてでもチケットをとらねばならない。 ネット上での先行予約は既に終了している。 いらない広告メールがたくさん来るのが嫌で、アンケート欄にメール・アドレスを書き込むのは控えているのだが、失敗したかもしれない…。 電話の先行予約がダイレクト・メールが届いたその翌日。 こんなタイミングで送ってくるとは。 しかし、その日は既に先約があって、電話をかけることは不可能に思えた。 ところが台風のために延期になったのは、幸い。 これで電話をかけることができる!

しかし、電話受付開始の10時頃はすっかり頭から抜けていて、思い出したのが10分くらい過ぎた頃。 あわててかけてみるが、当然のように繋がらない。 電話だけに専念していたわけではないが、いつまでたっても、繋がらない。 終了時刻の13時が近付いてきてさすがにあせってきた。 ようやく繋がったのが13時少し回ったところ。 時間で機械的に切られてしまう回線ではなかったようだ。 が、13時できっかりあきらめた人が多かったのだろうか。 とりえあずチケットがとれてホッ。

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前回の観劇から2週間、千秋楽に向かい最高潮にのっている時か、あるいは少々疲れが見え始める時か… どんな舞台が見られるか楽しみに再び劇場に向かった。 やはり、舞台の楽しみは「生きている」ということ。 複数回上演されればまったく同じ、ということはないのだから面白い。 私の印象では、総合的にみて2週間前に鑑賞したときより良くなっていた。

マルシアさんのルーシーのセリフと歌のギャップが少なくなったように感じた。 ルーシーは上流階級の人間ではないから、しゃべり方が多少たどたどしくてもおかしくはないことが幸いしているのだが、セリフが良くなっていたように思う。 知念里奈さんのエマも前よりずっと良かった。 2週間前よりずっと声がよく出ていたと思う。 ミキサーで調整しているのかもしれないが、マルシアさんのルーシーとのデュエットでもちゃんと声が聞こえてきた。 そして、「気の強い」エマというより「若々しい」エマになっていた。 どんなにひいきめに見たとしても、知念 里奈 さんに演技的な深さを求めるのは難しい。 では、彼女に出せるものは何か。 やはりそこは若さしかない。 歌は思いきってのびやかに、演技は背伸びせず若々しく、といった風で、2週間前より好感が持てた。 例の「やめて」というセリフの言い方もソフトになり、その後、しばらく呆然としてしまう流れへ自然とつながった。

エマという役柄の位置付けについての問題はまた別。 そもそも、この「ジキル&ハイド」はドラマ性が低いと言えるのかもしれない。 ドラマというよりはショー。 ジキルとハイドの葛藤というのはドラマチックにも成りうるが、一人が歌いながら演じ分けるというこのミュージカルでのクライマックスでは、ドラマチックというよりは、ちょっとしたショーだ。 殺人のシーンの派手な演出を見ても、ドラマというよりショー。 一方、ジキルとハイドを単純に善悪でなく描くやり方はドラマ的と言える。 科学者としては優秀で善人であるが社会性に欠けるジキル。 悪い奴なのだがどことなく魅力的なハイド。 ドラマチックなものを求めてしまうと、派手な演出が目障りだったり、コミカルな笑いをとるようなセリフがドラマを壊していると感じるかもしれない。 1回しか見ないのであれば、派手な演出が意外性となり面白く映るのだが、複数回見ると、意外性は感じなくなるので目障りにもなる得る。 ハイドが、サベージ伯爵を手にかける前に「勝手に死んでしまった」というセリフは笑いをとるものとも言えるが、ちょっと見方を変えるとサベージ伯爵という人物をよく表しているとも言える。 ショックで死んでしまうような小心者というのもなかなかリアリティがある。

2週間前より、前方の席で観ることができた。 舞台全景を見るにはけっこうギリギリな所である。 改めて、いくつかのことに気付いた。 スポットの当っていない所でも、別のドラマが繰り広げられているのには気付いていた。 窓から街の様子を眺める顔があるなど、舞台全部から目が離せない。 ジキルの元に薬が届けられた時、それを2階から見ている執事プールの姿に、今回、初めて気付いた。 気付かなくてもどうってことないといえばそうなのだが、プールという人物をよく現しているように思う。

2週間前の時は、少々魅力薄だったハイドだったが、より魅力的になっていてホッとした。 …が、ハイドが魅力的な時程、ジキルとハイドの演じ分けが曖昧になる傾向にあるようだ。 少なくとも私はそう感じる。 色彩に工夫があるのはパンフにもある通りだが、編曲にも工夫があるようだ。 後半ほど、楽器の部分ではピアノが単独で響いてくる部分が多くなる。 ピアノの音を哀愁の感じられるものとして使っているようだ。 そして、実際それは成功していると思う。 その他、同じメロディでも使われる場面と編曲が違うだけで まったく別の歌のように聴こえるのも面白い。 ジキルが、自らを実験対象に使うことに決め、希望も新たに歌うときは、不安を感じつつも船出を祝うような明るさに満ちているのに、ハイドを葬り去ることを決心して歌うときにはなんとせつなく苦しく聴こえることか…。 観れば観る程「ジキル&ハイド」の世界、そして音楽の魅力に ますます惹き付けられる。

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前回(もう一昨年にことになりますが)のステージですっかり惚れ込み、再び観劇して参りました。

一言で言うならば、前回よりショーアップ性を増し、よりエンターテイメントな舞台に仕上っていたと思います。 個人的には、前回カラオケ・テープ的だったオケ(オーケストラ)の音が、しっかりと「生」っぽい音で聴こえてきたのに、大満足です。 特に(これも個人的好み以外のなにものでもありませんが)、ピアノの音にはゾクゾクしたほど。 そして、細かな演出の変更によるものだと思いますが、全体的にわかりやすくなっていました。 もちろん、この1年の間に私が、「ジキル&ハイド」という作品に対する理解を深めたことも関係しているとは思います。 ルーシー演じるマルシアさんは、19世紀のロンドン社会について本を読んで勉強した上で、今回舞台に臨まれたとのこと。 ジキルとハイドの対決の場面にしても、照明などの効果を含め、よりわかりやすく描き分けられていました。 初演では、演技力のみでジキルとハイドを演じ分けたいとおっしゃっていた鹿賀 丈史さん。 それで無理がたたったのかどうかは定かではわかりませんが、上演中に咽を壊してしまったそうです。 今回は、ある意味、頑張り過ぎないことがポイントだったようで、それが外側の演出の助けを借りる演じ分けにつながったのかもしれませんが、わかりやすくなった、ということで正解だったと思います。

さて、今回、懸念していたのは、はっきり言ってしまうとエマの知念里奈さん。 結果として、ステージ全体の仕上りの足をひっぱるようなことにはなっていませんでしたが、いろいろな意味で物足りないです。 エマの持つ気の強さ、意志の強さというものはよく出ていたと思います。 ところが、その強い面が出てしまったがために、エマの行動に何か矛盾を感じるようになりました。 婚約者の具合が悪いと聞いて、会わずに帰るような女性ではなく、さらには、最後、友人のジョン・アターソンが婚約者を撃つのを黙って見ているような女性ではないはず。 「(撃つのを)やめて」というセリフがある以上、本当に撃つのをやめさせるか、あるいは、ジョンが「僕にはできない(撃てない)」と言ったときに、彼の銃をとりあげて代わりに撃ってしまうか、それくらい、行動を伴う強さを持つ女性でないとおかしいように感じられたのです。 いくら気が強い、行動的、といっても、19世紀のロンドンの上流階級の女性でそれはあり得ないので、黙って見ていることしかできない、というのは脚本としては正解です。 つまり、19世紀末の女性を演じられていなかった、ということになるのですが、別の見方をすると、エマという役柄の難しさを感じます。 ジキルの婚約者の上流階級の娘と娼婦が登場する、というのは原作にはない設定ですが、このミュージカルのオリジナルではなく、サイレント時代の映画で既にそのような設定のものがあるそうです。 その映画から、とは断定できませんが、婚約者と娼婦を登場させる設定は、それ以後もよく使われる手法になります。[2003年パンフより]

最近の映画化「Mary Reilly」では、婚約者ではなくメイドに置き換わりますが、ジキルに想いをよせるようになる娘と、やはり娼婦が出てきます。
エマは、ジキルの良き理解者という役柄です。 友人ジョン・アターソンもジキルの理解者という存在です。 19世紀という時代背景とアターソンが弁護士ということから、ジキルはアターソンには秘密を明かします。 が、婚約者エマには明かしません。 アターソンはジキルに口うるさく意見しますが、エマは口出ししません。 同じ理解者でも、孤立してしまうジキルにとって、エマはいわば癒しの存在。 そこをしっかり描かないと、役割がアターソンと被ってしまい、なんとも中途半端になってしまうのです。 特に、今回、エマの最後の独唱を大幅にカットしていたように思うのですが…(前回の初演ではもっと長かったような…)。 その方が、ジキルとハイドの死という結末が際立ちます。 …というか、実験の失敗および死、という衝撃的ともいえる事件を上回る印象を 最後の歌が与えないと、エンディングが締まりません。 やはり、それだけのものをもった人を配役しない限り、最後のエマの場面は長々としない方が正解でしょう。

他人の感想を読んで初めて気付いたのですが、ジキルのエマに対する愛情が描き切れていないという意見がありました。 確かに、6週間後に控えたエマとの結婚のことより、自分の作った薬の実験のことでジキルの頭の中はいっぱいです。 それは、エマへの信頼ゆえ、ということもできますが、やはりジキルのエマに対する想いをしっかり描かないと、エマ単独だけではジキルの癒しの存在には成り得ません。 癒しの存在にならないのならば、ジキルの理解者を劇中、二人も配する必要は薄れます。 極端なことを言えば、ジョン・アターソンという理解者を一人配しているのだから、エマの存在はカットしても物語として成り立たないことはないと思うのです。 そう考えると、エマの役柄はとても難しいのではないかと考えられます。

今回、ジョン・アターソン役は段田 安則さんから、池田 成志さんに交代しました。 段田さんの地味に友人を支える、といった雰囲気も良かったのですが(地味だっただけに、そして予測できなかっただけに、最後に銃を取り出すシーンの衝撃度は増しました)、今回の池田さんは、より存在感を持って登場してきました。 それだけに、エマの存在が余計にあやふやになったように思います。

さて、一方、ハイドに翻弄されるルーシーですが、マルシアさんの歌にはますます磨きがかかったように感じました。 それだけにセリフのたどたどしさが目立つのが残念。 いっそのことすべてメロディーをつけてセリフを言った方が…

ジキルとハイドの演じ分け、描き分け、という点においては、前回より成功していたと言えますが、 残念だったのは、ハイドの迫力・魅力が少々減じられていたこと。 この点に関しては、私の期待が大き過ぎたのかと思ったのですが、 他にもそのような感想を述べていらっしゃる方がいるので、私だけの印象ではないようです。

前半ラストの大司教殺人の場面…といよりむしろショーですが…は、やはり、前回同様、引きずり込まれるものを感じました。 が、休憩をはさんで後半、ハイドの連続殺人シーンにはそれほど強烈な印象を持ちませんでした。 そして、期待のルーシーとハイドのシーン。 前回は、舞台でこんなエロティックさを感じるなんて!と吃驚したシーンでした。 ところがわりとあっさり。 ハイドをただの悪人として片付けるのは簡単です。 が、前回は、ハイドを魅力的な悪人として演じることにより、偽善者批判を強く感じました。

制作者側や演じる側の意図として、メッセージ性よりも、エンターテイメント性をより強く出してきたのが今回の舞台だと思います。 製作発表記者会見で鹿賀さんがおっしゃっていたように、「ジキル&ハイド」という題材は、観客に感動を与えるものではありません。 どう受け止めるかは観客次第。 多重人格への問題提起と思うか、面白いエンターテイメント・ショーとして捉えるか、受け止め方は人それぞれ。 題材の性格上、エンターテイメント性をより強く出す、というのは決して間違った方向ではないし、その面ではショーアップした分、成功していると思います。

偉そうなことを言いますが、 偽善者批判というメッセージ性はともかく、魅力的かつ迫力のあるハイドの再現、エマの位置付け(どんな配役かにも大きく関わると思いますが)をどう解釈し、表現していくか、が、さらなるブラッシュアップへの課題(次回への再演の希望を込めて)かと思います。 そのような意味で、まだ発展途上といえる部分もあるのですが、それでも、総合的なエンターテイメント・ショーとしての完成度はかなり高いものです。 素直に、面白かった、楽しい時間を過ごせた、と言えます。

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