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前回(もう一昨年にことになりますが)のステージですっかり惚れ込み、再び観劇して参りました。 一言で言うならば、前回よりショーアップ性を増し、よりエンターテイメントな舞台に仕上っていたと思います。 個人的には、前回カラオケ・テープ的だったオケ(オーケストラ)の音が、しっかりと「生」っぽい音で聴こえてきたのに、大満足です。 特に(これも個人的好み以外のなにものでもありませんが)、ピアノの音にはゾクゾクしたほど。 そして、細かな演出の変更によるものだと思いますが、全体的にわかりやすくなっていました。 もちろん、この1年の間に私が、「ジキル&ハイド」という作品に対する理解を深めたことも関係しているとは思います。 ルーシー演じるマルシアさんは、19世紀のロンドン社会について本を読んで勉強した上で、今回舞台に臨まれたとのこと。 ジキルとハイドの対決の場面にしても、照明などの効果を含め、よりわかりやすく描き分けられていました。 初演では、演技力のみでジキルとハイドを演じ分けたいとおっしゃっていた鹿賀 丈史さん。 それで無理がたたったのかどうかは定かではわかりませんが、上演中に咽を壊してしまったそうです。 今回は、ある意味、頑張り過ぎないことがポイントだったようで、それが外側の演出の助けを借りる演じ分けにつながったのかもしれませんが、わかりやすくなった、ということで正解だったと思います。 さて、今回、懸念していたのは、はっきり言ってしまうとエマの知念里奈さん。 結果として、ステージ全体の仕上りの足をひっぱるようなことにはなっていませんでしたが、いろいろな意味で物足りないです。 エマの持つ気の強さ、意志の強さというものはよく出ていたと思います。 ところが、その強い面が出てしまったがために、エマの行動に何か矛盾を感じるようになりました。 婚約者の具合が悪いと聞いて、会わずに帰るような女性ではなく、さらには、最後、友人のジョン・アターソンが婚約者を撃つのを黙って見ているような女性ではないはず。 「(撃つのを)やめて」というセリフがある以上、本当に撃つのをやめさせるか、あるいは、ジョンが「僕にはできない(撃てない)」と言ったときに、彼の銃をとりあげて代わりに撃ってしまうか、それくらい、行動を伴う強さを持つ女性でないとおかしいように感じられたのです。 いくら気が強い、行動的、といっても、19世紀のロンドンの上流階級の女性でそれはあり得ないので、黙って見ていることしかできない、というのは脚本としては正解です。 つまり、19世紀末の女性を演じられていなかった、ということになるのですが、別の見方をすると、エマという役柄の難しさを感じます。 ジキルの婚約者の上流階級の娘と娼婦が登場する、というのは原作にはない設定ですが、このミュージカルのオリジナルではなく、サイレント時代の映画で既にそのような設定のものがあるそうです。 その映画から、とは断定できませんが、婚約者と娼婦を登場させる設定は、それ以後もよく使われる手法になります。[2003年パンフより] 最近の映画化「Mary Reilly」では、婚約者ではなくメイドに置き換わりますが、ジキルに想いをよせるようになる娘と、やはり娼婦が出てきます。エマは、ジキルの良き理解者という役柄です。 友人ジョン・アターソンもジキルの理解者という存在です。 19世紀という時代背景とアターソンが弁護士ということから、ジキルはアターソンには秘密を明かします。 が、婚約者エマには明かしません。 アターソンはジキルに口うるさく意見しますが、エマは口出ししません。 同じ理解者でも、孤立してしまうジキルにとって、エマはいわば癒しの存在。 そこをしっかり描かないと、役割がアターソンと被ってしまい、なんとも中途半端になってしまうのです。 特に、今回、エマの最後の独唱を大幅にカットしていたように思うのですが…(前回の初演ではもっと長かったような…)。 その方が、ジキルとハイドの死という結末が際立ちます。 …というか、実験の失敗および死、という衝撃的ともいえる事件を上回る印象を 最後の歌が与えないと、エンディングが締まりません。 やはり、それだけのものをもった人を配役しない限り、最後のエマの場面は長々としない方が正解でしょう。 他人の感想を読んで初めて気付いたのですが、ジキルのエマに対する愛情が描き切れていないという意見がありました。 確かに、6週間後に控えたエマとの結婚のことより、自分の作った薬の実験のことでジキルの頭の中はいっぱいです。 それは、エマへの信頼ゆえ、ということもできますが、やはりジキルのエマに対する想いをしっかり描かないと、エマ単独だけではジキルの癒しの存在には成り得ません。 癒しの存在にならないのならば、ジキルの理解者を劇中、二人も配する必要は薄れます。 極端なことを言えば、ジョン・アターソンという理解者を一人配しているのだから、エマの存在はカットしても物語として成り立たないことはないと思うのです。 そう考えると、エマの役柄はとても難しいのではないかと考えられます。 今回、ジョン・アターソン役は段田 安則さんから、池田 成志さんに交代しました。 段田さんの地味に友人を支える、といった雰囲気も良かったのですが(地味だっただけに、そして予測できなかっただけに、最後に銃を取り出すシーンの衝撃度は増しました)、今回の池田さんは、より存在感を持って登場してきました。 それだけに、エマの存在が余計にあやふやになったように思います。 さて、一方、ハイドに翻弄されるルーシーですが、マルシアさんの歌にはますます磨きがかかったように感じました。 それだけにセリフのたどたどしさが目立つのが残念。 いっそのことすべてメロディーをつけてセリフを言った方が… ジキルとハイドの演じ分け、描き分け、という点においては、前回より成功していたと言えますが、 残念だったのは、ハイドの迫力・魅力が少々減じられていたこと。 この点に関しては、私の期待が大き過ぎたのかと思ったのですが、 他にもそのような感想を述べていらっしゃる方がいるので、私だけの印象ではないようです。 前半ラストの大司教殺人の場面…といよりむしろショーですが…は、やはり、前回同様、引きずり込まれるものを感じました。 が、休憩をはさんで後半、ハイドの連続殺人シーンにはそれほど強烈な印象を持ちませんでした。 そして、期待のルーシーとハイドのシーン。 前回は、舞台でこんなエロティックさを感じるなんて!と吃驚したシーンでした。 ところがわりとあっさり。 ハイドをただの悪人として片付けるのは簡単です。 が、前回は、ハイドを魅力的な悪人として演じることにより、偽善者批判を強く感じました。 制作者側や演じる側の意図として、メッセージ性よりも、エンターテイメント性をより強く出してきたのが今回の舞台だと思います。 製作発表記者会見で鹿賀さんがおっしゃっていたように、「ジキル&ハイド」という題材は、観客に感動を与えるものではありません。 どう受け止めるかは観客次第。 多重人格への問題提起と思うか、面白いエンターテイメント・ショーとして捉えるか、受け止め方は人それぞれ。 題材の性格上、エンターテイメント性をより強く出す、というのは決して間違った方向ではないし、その面ではショーアップした分、成功していると思います。 偉そうなことを言いますが、 偽善者批判というメッセージ性はともかく、魅力的かつ迫力のあるハイドの再現、エマの位置付け(どんな配役かにも大きく関わると思いますが)をどう解釈し、表現していくか、が、さらなるブラッシュアップへの課題(次回への再演の希望を込めて)かと思います。 そのような意味で、まだ発展途上といえる部分もあるのですが、それでも、総合的なエンターテイメント・ショーとしての完成度はかなり高いものです。 素直に、面白かった、楽しい時間を過ごせた、と言えます。 PR |
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