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ミュージカル「ジキルとハイド」について、あちこちのサイトを巡って他の人の感想も読んでみた。 これは、ミュージカルというのはちょっと??なもののようである。 私も、ミュージカルをそんなに見ているわけではないが、これについては同感。

また、カラオケテープをバックに歌っているように聴こえる、という音響についての辛口意見についても同感。 舞台というのは、役者の生の声がビンビン響いてくるものだと思っていたのだが、そうでなかったのには、正直、がっかりした。 日生劇場クラスの劇場でも、マイクを使わなくても、役者の声は通ると思うのだが、どうなのだろう? もう少し小さめの劇場の方が良いのかもしれないが、結構舞台装置は大がかりだから果たしてどうだろうか。

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11月18日に日生劇場の公演を観て来た。

「ジキルとハイド」というと二重人格の代名詞としてあまりにも有名。 しかし、原作を読んだことがあるかというと…実は無い。 だから、どういうストーリーなのかというと、実はよく知らなかったりする。

「ジキルとハイド」は1886年に発表されたスティーブンスンの著作。 スティーブンスンの著作としては、他に、「宝島」(1883年)、「新アラビアンナイト」(1882年)などがある。 ぜんぜんカテゴリーが違うじゃないか! そもそも「宝島」と「ジキルとハイド」の著者が同じなんてずっと知らなかった(爆)。 「宝島」も実は読んだことがなかったりするが。

物語の舞台は、19世紀末のロンドン。 ミュージカルでのハイドは、ロンドンの夜の闇に紛れて、次々と殺人を犯す。 この殺人のシーンがとても見事。 観る者をぐいぐいとひきつけていく舞台構成は素晴らしい。

原作では、殺人を犯すのは1回だけで、そのためにくハイドであることが嫌になる、という筋書きになっている。 しかし、今更、原作に忠実に「ジキルとハイド」をやったところでしょうがない。

次々と殺人を犯すハイドはただ凶悪なだけかというと、そうではないようにも思える。 これはこのミュージカルでの脚色だが、偽善者ぶったヤツをまず殺していくのだ。 殺人を肯定するわけではないが、候爵夫人を殺した後に、彼女の宝石を貧民にくれてやる場面など、本当にハイドが悪人がどうか考えてしまう。 でも、ハイドの魔の手は、偽善者以外にも広がっているのである。

原作では、偽善者なのは、むしろジキルである。 ジキルは、偽善者である自分に嫌気がさして、薬を作り、それを飲むのである。 ミュージカルでのジキルは、毒づいたセリフもはくが、基本的に善人としてジキルを描いてる。 薬はまったくの善意から作られたもので、自らを人体実験として服用したことから、破滅の道を下り、連続殺人を犯すようになる。

ひょっとしてこの作品(ミュージカル)のアイデアの裏に「切り裂きジャック」の事件があるのかもしれない、と連続殺人のシーンを観て思った。

「切り裂きジャック」の事件は、実際にロンドンで起きた連続殺人事件のことである。 結局事件の犯人はわからず、迷宮入りした事件だ。 これに限らず、19世紀末のロンドンという所は物騒な所だったらしい。

で、調べてみたら、「切り裂きジャック」の事件は1988年。 「ジキルとハイド」の発表の方が2年早かった。 そもそも原作では連続殺人はない。

さらに調べてみたら、 「ジキルとハイド」にはモデルになった別の人物がいることがわかった。 エディンバラのディーコン・ブローディ(1741〜1788)がその人である。 ブローディはエディンバラの有力市民として、市議会の常任議員、エディンバラ大工・石工組合の長を務めた。 一方、賭場で知り合った仲間と盗みに手を染めるようになり、最後は捕まって絞首刑に処せられた。

著者のスティーブンスン自身、自分の中にジキルのような二面性を見出していたようなので、ブローディだけがモデルというのではないのかもしれない。 さらに言うと、フロイトがちょうど同じ時代の人である。 人間の二面性について、認められ始めた時代なのだろう。

「ジキルとハイド」はいろいろな形で何度も映画化されている。 実はそのどれも見たことないが。 原作では、薬の作用により、人格だけでなく体格まで変わってしまうことになっている。 体格が変わることについて、それなりの理由が説明されているのが面白い。 映画だと、特殊メークや最新の撮影技術による変身シーン、そして、変身前、変身後の姿が一つの見所になるのだろうが、舞台ではメークや撮影技術に頼るわけにはいかない。 役者の演技力にかかってくる。 さすがに体格まで変わらないが、舞台上で行われる変身シーンが素晴らしい。 怪しげな色の薬も小道具としてなかなかの効果をあげている。

もちろん演技力でも充分なのだが、よりわかりやすくするためか、ハイドのときはコートを着て登場する。 このコートを見て、シャーロック・ホームズを思い浮かべてしまったのだが、ホームズシリーズの最初の作品の発表が 1887年12月。 同時代の作品である。

ちなみに映画「エレファント・マン」のモデル、ジョン・メリックも19世紀末のロンドンにいた実在の人物だ。 その他、同時代の作品としては、「小公子」(1886年)もそうである。 「小公子」は一応ハッピーエンドだが、決して明るくはない、暗いイメージが 漂うものばかりのように思うのは気のせいだろうか。

ちなみに、同じロンドンを舞台にした「メアリー・ポピンズ」「マイ・フェア・レディ」はいずれも1900年代に入ってからのお話。 かなり明るいイメージ。

ロンドンが舞台ではなかったけれど、1981年発表の「テス」はやはり暗い。

思いっきり話がそれてしまった。 「ジキルとハイド」の話に戻ろう。 原作によると、ハイドの風貌は決して良いものではない。 それゆえか、映画ではホラー作品として作られているものが多いように感じられる。 どれも見たことがないので分類から想像しているだけだが。 ハイドが女性の設定のものもあり、そうなるとコメディか?

実は原作は、推理小説風のミステリー仕立てになっている。 もちろん今回本を読んで初めて知ったことだが ジキル=ハイドだとわからないで読み進めていったら、それはそれで面白かっただろうと想像するが、そういう楽しみ方をできる人がこの作品に関してはどれだけいることやら…。そう思うと、少々残念である。

ミュージカルでは、原作にない人物、娼婦のルーシーと、ジキルの婚約者のエマが出演する。 この二人が登場することによって、かなりドラマティックな展開になっている。 ルーシー役はミュージカル初挑戦のマルシア。 正直言って、こんなに歌って踊れる人だとは知らなかった。 歌手として舞台をたくさんこなしてきた実力だろうか。 エマ役は茂森あゆみ。 声がとても綺麗。エマ役にぴったり。声が裏返るときに不安定になるのが難点。

ミュージカルといっても、踊るシーンは少なく、音楽劇といった方が適切かもしれない。 歌は、1曲1曲歌い終えるたびに拍手が自然と湧き起こるくらい、聴かせる歌になっている。 もともと、歌(CD)に惚れ込んで、鹿賀丈史さんが日本版を上演したいと言い出したのだとか。

物語の舞台は19世紀末だが、歌というか音楽はとてもモダンだ。 「モダン」なんていう言葉を使うとそれだけで古くさいような感じがしなくもないが、そうではなくて、現代的なのである。

最初は、薬で自由自在に変身していたジキルだが、だんだん、ジキルでいるために薬が不可欠なものとなってくる。 ほっておくとハイドになってしまう、ということなのだが、ということは、本質はハイドの方だったということか。 ちなみにハイド(Hyde)は、hide(隠す) である。

ちなみに、著者のスティーブンスンは、1894年に亡くなっているので、原作の著作権保護期間は切れている。 英語のサイトを探せば、原文のテキストを公開しているページがいくつかある。 日本語訳については、翻訳者の著作権がまだ切れていないが、ネット上でフリーで読めるように訳を公開しているページがある。

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