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「風と共に去りぬ」が主にスカーレットを中心に彼女の側から書かれた物語であるのに対して、これはレット・バトラーの側から書かれた物語。 続編ではなくて、「風と共に去りぬ」では詳細が語られないレット・バトラーの生い立ちや過去から始まる。 トウェルブオークスのパーティーの場面から「風と共に去りぬ」と並行に物語は進む。 レットが去りスカーレットがタラに戻るところで「風と共に去りぬ」は終るが、この「レット・バトラー」ではさらに話が進行し、予想通りというか期待を裏切らない通りというか、レットがスカーレットの元に戻りハッピー・エンドで物語は終了する。

「風と共に去りぬ」の原作者ミッチェルの相続人達は、2011年に『風と共に去りぬ』の著作権が切れた後の続編の乱発を恐れて、先手を打って続編の出版を企画した。 その最初が1991年のリプリーの「スカーレット」。 (日本では森瑤子役で出版、テレビドラマ化されたものも日本で放映された。) そして去年(2007年)「レット・バトラー」が出版されたらしい。 いくら企画しても、著作権が切れれば自由に二次創作できてしまうわけで、このネット時代に、続編の乱発を防ぐ効果がどれだけあるのかは、個人的には疑問である。

最初、レット・バトラーの生い立ちから始まる部分はスイスイと読めた。 「風と共に去りぬ」で明かされない部分をうまく創作している。 つまり「風と共に去りぬ」で噂が多く謎の多い人物として登場するレット・バトラーに違和感なくつながる。

物語は次第にレット・バトラーの周辺の人物の話に広がっていく。 この辺りから読みにくくなる。 レット・バトラーには興味があるが、「風と共に去りぬ」に登場しない人物や登場してもほとんど覚えていないような人物の過去が仔細に語られても困惑する、という読み手の勝手な想定によるものだ。 しかし、この辺をきちんと押さえておかないとこの「レット・バトラー」を読む面白さは半減してしまう。 …というのは、後から気が付いた。 あとがきを読んでさらに気が付いたが原題は「Rhett Butler's People」。 レット・バトラーが主人公だと勝手に期待して読む方が悪い。 そういう意味ではこの邦題の付け方は良くないと思う。

「風と共に去りぬ」と並行に進行する部分は、面白くもあり、その逆でもある。 原作で語られない部分を、補足として読める場合もある。 自分で勝手に想像していたものが、違うように語られれば面白いとは思えない。 メラニーとレットの妹ローズマリーが親しく手紙を交換していることになっているのだが、その中で語られるメラニーの本音は、例えそうであってもそれを文字化して欲しくなかったようにも思う。 仄めかす、という演出効果は、映画でも物語でももう過去のものなのか...。

終盤は、時代が変わってきたことを色濃く感じさせる内容になっている。 そんな中で、結局、レットはスカーレットの元に戻ってきてめでたしめでたし、という展開。 騙されたような気はしないが、そんな安直にまたくっついちゃうの?という気がしなくもない。 男顔負けのスカーレットの活躍ぶりは、読んでいて楽しいし、だらだらとレットとスカーレットの愛憎ぶりをひっぱってもストーリーとしてつまらないので、こんなところが適当かと思う。

結局、原作が出来すぎているのよね。

気の強い緑の瞳の主人公に、王子様な初恋の人、でも本命はちょっと不良っぽいって少女マンガにパクられているでしょー。

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